white side 6
目を開けると、白い天井があった。
見覚えのない天井で、鼻につく薬品の匂いがした。
「……病院?」
声が掠れた。身体を起こそうとして、やめた。
痛みはない。身体にあった傷は、ほとんど消えている。
それなのに、身体が重い。指一本動かすのも億劫なほど、身体の芯が空っぽだった。
「白?」
すぐ横から声がした。母さんだった。
椅子から立ち上がった母さんは、いつも綺麗に整っている金色の髪を、今日は少し乱していた。
「白……!」
抱きしめられた。こんなに強く。
心配かけたんだな。
「母さん」
「あ……ごめんなさい。苦しくない?」
「大丈夫」
身体に傷はない。
それでも、母さんの腕に包まれると、張りつめていた何かが少しだけ緩んだ。
その向こうから、父さんも立ち上がった。
「……よく、帰ってくれたな。白」
目が赤い。父さんが泣いたところなんて、ほとんど見たことがない。
部屋の隅を見ると、バロンじいちゃん、ヘルメスばあちゃん、カンタじいちゃんがみんないた。
「……みんなは?」
自分でも驚くほど、すぐにその言葉が出た。
「みんなって?」
母さんが聞く。
「トウヤたち」
「ああ」
父さんが頷いた。
「全員無事だ」
その一言で、身体から一気に力が抜けた。
「……よかった」
本当に、よかった。
それだけで十分だった。
僕が生きていることより、みんなが生きていたことの方が、ずっと嬉しかった。
目の奥が熱くなる。
「よかった……」
もう一度言うと、今度は声が震えた。
母さんが、僕の手を握る。
誰も何も言わなかった。
しばらくは、それだけで十分だった。
◇
黒インプの吹き矢に込められていたものは、やはり苦痛魔法だったらしい。
70階へ帰還したあと、探索者組合に常駐していたヒーラーから応急処置を受け、かかりつけのケイユウ病院へそのまま搬送されたようだ。
身体の傷そのものは、すぐに治った。骨も、裂けた皮膚も、ドランの剥がれた鱗も。
現在の治癒魔法なら、時間さえあればほとんど元に戻せる。
問題は、魔力と体力。
そして、苦痛魔法だった。
身体に残っていた苦痛魔法は、上位の浄化魔法で取り除いてもらった。それでも、長時間にわたって全身へ痛みを流し込まれ続けたせいなのか、もう何も刺さっていないのに、肩や脚、背中が突然ずきりと痛む。
先生によれば、身体ではなく、頭の方が痛みを記憶しているらしい。それに加え、全員が魔力をほとんど使い切っていた。
僕に至っては、70階へ戻った直後に意識を失った。
だから、入院というより、今は経過観察だ。身体を治すためではなく、休むために、ここにいる。
翌日、四人が僕の病室に来た。
見た目だけなら、昨日、あれほど酷い目に遭ったとは思えない。傷はもう、ほとんど残っていなかった。
でも、疲労とショックは隠せていない。
「……酷い顔だな」
僕が言うと。
「お前が言うな」
ドランが返した。顔色が悪い。いつもの元気もない。
シエナも、トウヤも、ユイも、みんな同じだった。
傷はない。
でも、疲れている。
身体ではなく、もっと奥の方が。
「白が一番酷い顔してるよ」
ユイが弱く笑った。
「そうかな」
「そうです」
シエナも言う。
しばらく、誰も話さなかった。
「……ごめん」
僕は言った。
「何がですか?」
シエナが首を傾げる。
「僕が部長なのに」
「意味分かんねえよ」
ドランが言った。
「撤退を決めたのはお前だろ」
「でも」
「あの石を使ってなかったら、死んでた」
トウヤが言った。いつもの軽い調子ではなかった。
「帰還石がなかったら、全員死んでたよ。なんだよ、あれ……」
誰も否定しない。
僕も、否定できなかった。
あの時、もし帰還石を惜しんでいたら。
今ここには、誰もいなかったかもしれない。
「白」
ユイが僕を見る。
「ありがとう」
僕は何も言えなかった。
◇
夕方、また病室の扉が開いた。
白い耳が見えた。
「白」
ハイネだ!
「お見舞い」
手には紙袋。
「来てくれたの!?」
「うん。プリン持ってきたよ」
「五個?」
「みんなの分」
「僕しかいないよ」
「じゃあ白が五個食べて」
「病み上がりに何させる気だよ」
久しぶりに、少し笑った。ハイネも笑った。
でも、その顔はすぐに曇った。ベッドの横に座る。
「身体は?」
「もう大丈夫」
「本当に?」
「傷はね」
それだけで、ハイネには分かったらしい。
「……怖かった?」
「うん」
嘘をつく気にはなれなかった。
「すごく」
「そっか」
ハイネは俯いた。白い耳も、少しだけ伏せる。
二人でプリンを食べた。
僕は二個目の途中で限界だった。
ハイネは残りを普通に食べている。
「それ、僕のお見舞いじゃなかったの?」
「食べない白が悪い」
「理不尽だな」
ハイネはスプーンを口に運びかけて。
止めた。
「白」
「ん?」
「もう、やめる?」
僕の手も止まった。
何を、なんて聞く必要はなかった。
ランドマークタワー。
探索者。
百階。
「……」
答えようとした。
でも、言葉が出なかった。
今までなら、たぶんすぐに言えた。
やめない。
登る。
僕は百階へ行く。
そう言えたはずだった。
キキキ。シネシネ。
黒インプの声が聞こえた気がした。
ドランが倒れる。
ユイが悲鳴を上げる。
シエナの矢がなくなる。
トウヤの《光壁》が砕ける。
僕自身が。
逃がしてくれと願った。
「……分からない」
ようやく出た言葉は、それだった。
ハイネは少し黙った。
「前にも言ったよね」
「え?」
「わたし、白がいつか死んじゃうのが怖いって」
赤い瞳が、まっすぐ僕を見る。
「九十六階の話を聞いた時、本当にそうなるかもしれないって思った」
ハイネがスプーンを握る手に、少し力を込めた。
「だから……やめてほしいって言いたい」
胸が詰まった。
「でも、白が登りたいのも知ってるの」
ハイネは困ったように笑った。
「だから、わたしも分かんない」
「ハイネ……」
「ただ、ね」
白い耳が、また少し伏せた。
「白が帰ってこないのは、嫌だよ」
僕は何も言えなかった。
ハイネも、それ以上は言わなかった。
◇
退院して数日後、学校に呼び出された。
会議室には、長い机を挟んでクリプト先生、校長、そしてヘルメスばあちゃんが座っていた。
……嫌な予感しかしない。
「山西」
クリプト先生が口を開いた。探索部の顧問をしてくれている。僕らが遠征で何度も学校を休んでいるのに、出席日数が大丈夫なのは先生のおかげだった。
「先に結論から言うぞ」
「はい」
「部活動としての高階層攻略は、ここで終了だ」
分かっていた。
多分、病院にいる時からずっと。
「……はい」
「高校の部活動として認められているのは、原則二十五階までだ。全国大会でも、高校生の最高到達記録は三十五階だぞ?」
先生が僕を見る。
「お前らは九十五階を攻略した」
何も言えなかった。
「弱いから止めるんじゃないぞ?」
クリプト先生は腕を組んだ。
「逆だ。強すぎたんだよ」
僕は顔を上げる。
「気付いたら、高校生が九十五階まで攻略している。もう部活動って範囲じゃない」
「……はい」
「十分だろ、山西」
その言葉が、胸に刺さった。
「お前らは、とっくに証明してる。百階なんて、社会人になってからでいいんだ」
先生は少し間を置いた。
「生きていれば、何度でも挑戦できる。違うか?」
正しい。
全部、正しい。
校長が口を開く。
「そもそも、九十五階までの活動を学校として認めていたこと自体が特例です」
視線が、ヘルメスばあちゃんへ移る。
「その特例を認めるにあたり、ヘルメス様から条件が提示されていました」
僕はばあちゃんを見る。
「白」
静かな声だった。
「勘違いしないでください」
「……何を?」
「私は一度も、あなたに塔へ登ってほしいと思ったことはありません」
胸が、少し痛んだ。もしかしたらそうかもしれない、そう思っていたから。
「じゃあ……どうして」
「あなたが、どうしても登ると言ったからです」
迷いのない返事だった。
「私が止めても、あなたは登っていたでしょう」
「……」
否定できない。
それどころか。
「はい。……学校が止めても、法律上は僕個人で入れると知っていたから、きっと登っていたでしょうね」
クリプト先生が小さく息を吐いた。
「確かに……お前ならそうするだろうな」
先生は椅子の背にもたれた。
この国では、年齢だけを理由にダンジョンへの挑戦を禁じることはできない。
それはプルメリア国が日本にかけた、要請という名の圧力の結果だと言われる。
もちろん、ヘルメスばあちゃんを前に言えない言葉なのだろうけど。
そう。行こうと思えば、行ける。
「だからです」
ヘルメスばあちゃんが言った。
「止められないのなら、せめて帰ってこられる手段を持たせる」
無意識に、胸元へ手を伸ばした。
もう。
何も入っていない場所。
「帰還石……」
「はい」
ばあちゃんが頷いた。
「あれを持つこと。それが、学校側に高階層攻略を認めてもらうための絶対条件でした」
知らなかった。
特別扱いされていることは分かっていた。遠征で休みがちの授業に遅れないよう、勉強も頑張っていたつもりだ。
でも、ばあちゃんが話してくれていたんだな。あの石そのものを、その条件にして。
「そして」
ばあちゃんが僕を見る。
「あなたと私の約束でもありました」
「……うん」
「覚えていますね」
忘れるはずがない。
「あの石を使わなければならない事態になった時は、探索者を辞める」
「……約束した」
会議室が静かになった。
終わりだ。
法律上は登れる。
でも。
ばあちゃんとの約束を守るなら。
終わり。
「ただし」
ばあちゃんが続けた。
「九十六階で帰還石を使用した判断については、間違っていません」
僕は顔を上げた。
「え」
「そのために渡したものです」
「でも……」
「白」
穏やかな声。
でも、反論を許さない声だった。
「五人とも生きて帰りました」
「……」
「それで十分です」
石一つで。
五人が戻った。
「失ったものを惜しむ必要はありません」
ばあちゃんの表情が、ほんの少し柔らかくなる。
「あなたは、あの場で一党を率いる者として正しい判断をしました」
胸の奥が、熱くなった。
「……はい!」
「よく帰ってきましたね、白」
僕は俯いた。
「……ただいま」
◇
法律だけなら、僕は明日にでも、またタワーへ入れる。学校に止められても、僕が本当に行こうと思えば行ける。
でも。
それをしたら、ばあちゃんとの約束を破る。
学校のみんなも。
父さんも、母さんも。
ハイネも。
きっと心配する。
そして、何より。
僕自身が、まだ怖かった。
◇
家に帰ると、部屋の隅に探索装備が置いてあった。
70階から病院へ運ばれたあと、探索者組合から返されたものだ。
プロテクター。
ブーツ。
バッグ。
そして。
ラディッシュ。
剣を手に取る。
「……」
少し重い。
前は、握るだけで心が躍った。
次は何階まで行けるだろう。
何が待っているだろう。
そう思った。
今は。
黒インプの笑い声が浮かぶ。
「……もう、終わりかな」
ラディッシュは何も言わない。
珍しい。
「三年間か」
中学生の頃から、ずっと登ってきた。
「結構、登ったよな」
何も返ってこない。
僕はラディッシュを鞘へ戻し、ケースに入れる。
そして、蓋に手をかけた。
「……今までありがとな」
ぱたん。
ケースを閉じる。
その瞬間。
中から、小さな声がした。
「……腰抜けが」
僕の手が止まった。




