black side 5
午前四時。
店の二階から最後の客が帰り、ようやく静かになった。
一階からはまだ音楽が聞こえているが、先ほどよりはずっとましだ。俺はソファに座ったまま、スマホをテーブルへ置いた。
百階へ行く日は、まだ決めていない。柴田は毎日のように新しい資料を持ってくるし、牙狼は「そろそろ行こうぜ」と急かしてくる。
摩耶は行く気満々だ。澪も、もう身体に問題はない。俺だって早く行きたい。
だが、百階には階層支配者がいる。九十九階までとは違う。
全員が万全の状態になるまでは行かない。そう決めた。
「黒ちゃん、帰らないの?」
摩耶が階段から顔を出した。
「帰る」
「じゃあ一緒に帰ろう」
「お前の家、逆方向だろ」
「黒の家に帰れば同じ方向だよ?」
「お前が出ていったんだろ」
「……そうだけど」
摩耶が一瞬だけ視線を逸らした。
「じゃあ帰れ」
「けち」
摩耶は口を尖らせた。その後ろから澪も顔を出す。
「摩耶ちゃん、諦めよう。黒は今日も冷たいにゃ」
「いつか絶対、また黒の家に住んでやる」
「やめろ」
「おやすみ、黒ちゃん」
「おう」
二人が階段を下りていき、ようやく一人になった。
……と思ったら、また階段から足音が聞こえた。
「何か忘れ――」
白い耳が見えた。
「こんばんは」
「ハイネ!?」
一気に眠気が飛んだ。
もう少しここにいてもいい。むしろ、ハイネがいるなら俺もいる。
もちろん、そんなことは本人には言わない。
「まだいたんだ」
「今帰るところだ」
「そっか」
ハイネが上がってくる。
いつもなら勝手にソファへ座る。今日も座った。
だが、何かが違う。
あれは元気のない時の耳だ。ピンとはしているけど、どこか怯えているような。俺はハイネの白い耳を眺めた。
「お前、どうかしたか?」
「何が?」
「顔」
「顔?」
「死んでる」
「ひどい」
ハイネは笑った。だが、笑えていない。目の下も少し暗い。
「寝てないのか?」
「あんまりね」
ハイネがソファの背にもたれた。それだけで、身体全体から力が抜けたように見えた。
「腹、減ってるか?」
「んー……」
「食ってないだろ?」
返事が遅い。
俺は一階へ降り、厨房に残っていた材料で手早く炒飯を作る。見栄えよく盛り付けて二階へ戻り、ハイネの前へ置いた。
「まあ、食えよ」
「えっ」
「いらないなら捨てる」
「食べる!」
急に元気になったハイネがレンゲを手に取り、一口、二口と頬張る。
「おいしい」
「それはよかった」
美味しそうに食べるハイネを見て、俺は内心ウキウキだった。
「黒が作ったの?」
「そ、そんなわけねぇだろ」
「嘘つき。前と同じで美味しいよ」
「違うって、味覇入れたらみんな同じだろ」
「ありがと。美味しくて、少しだけ元気出た」
少しだけ、いつもの顔に戻った。俺は向かいに座る。
「それで」
「ん?」
「何があった」
ハイネの手が止まり、しばらく炒飯を見つめていた。
「……白が」
また。
その名前だ。
「白が、ボロボロになって帰ってきて、それでもう探索者、続けられないかもしれないって……」
俺は何も言わなかった。
「九十六階で死にかけたみたいなの」
「九十六階?」
「うん」
そこなら俺たちも通った。巨大な迷路。地図が途中で役に立たなくなり、摩耶の魔法で切り抜けた場所だっけ。
「何があったんだ?」
そいつに興味はなかった。だけど、ハイネをこんなに悲しませるなんて。
「黒くて、小さい魔物がいたんだって。インプみたいな見た目で、喋ったり、消えたり、罠を使ったりして」
「インプ? 喋る? なんだそりゃ」
インプ……は、柴田が持ってた図鑑で見たような、見てないような。俺には思い出せなかった。
「人の言葉を話す魔物なんだって。最後は迷路内に閉じ込められて、ゴーレムに囲まれて……全員、死ぬところだったって」
「……そんな奴、いたか?」
俺は九十六階を思い出す。壁。狼のようなゴーレム。人型のゴーレム。広大な迷路……。
だが、黒くて小さい奴。
そんなものは……。
「俺たちは会っていないぞ」
「そうなの?」
「ああ」
少なくとも、覚えていない。そんな面倒そうな奴に遭遇していたら、牙狼が絶対に騒いでいる。
「でも白は生きているんだろ?」
「うん」
「なら、よかったじゃないか」
ハイネが俺を見る。少し怒った顔だった。
「よくないよ。すごく……落ち込んでるんだ」
「生きているんだろ」
「生きているけど、死にかけたんだよ!?」
「でも生きてるじゃん」
「黒」
「何だよ」
「そういうところ」
どういうところだよ。
だが、ハイネはすぐに目を伏せた。
「……帰還石を使ったんだって」
「帰還石?」
「ランドマークタワーのどの階からでも、一度だけ70階へ戻れる石」
「へー、便利じゃないか」
「ものすごく貴重なものなんだって」
「なら、使えてよかっただろ」
「うん」
ハイネが俯いた。
「私も、そう思う」
だったら、なぜそんな顔をしている。
聞こうとして、やめた。何となく、まだ続きがあるような顔だった。
「それで、白、探索者をやめるかもしれない」
「は? なんで?」
思わず声が出た。
「帰還石を使ったら探索者をやめるって、白のおばあちゃんと約束していたんだって」
「意味が分からない」
「きっと危ない目に遭ってほしくないんだよ。でも……」
約束したから。死ぬところから帰ってきたから。
だから終わり?
俺にはよく分からない。
「九十五階までは行ったんだよな?」
「うん」
「百階まであと少しじゃないか」
「そういう問題じゃないみたい」
「よく分からんな」
俺だって、澪が九十八階で倒れた時は、九十九階へ進むのをやめた。
百階まで近いとか、あと何階とか、そんなことは関係なかった。死ねば終わりだ。
「白、その階が怖いって言ってた」
ハイネが小さく言う。
「へぇ……」
少し意外だった。
ハイネが話す白は、いつも真面目で、優しくて、強くて。何でもきちんとやる奴のように聞こえていたから。
「すごく怖かったって」
「そりゃ怖いだろ」
「え?」
「死ぬところだったんだろ?」
「……うん」
「怖くない方がおかしいじゃないか」
ハイネが俺を見る。何だよ。
「黒でも怖い?」
「さあな。怖いにもいろいろあるからよ。俺の怖いと白の怖い、んでハイネの怖いも、全然違うかもしれねーだろ」
「黒のはどんな怖さなの?」
「俺は自分が自分じゃなくなるのが怖い」
死にかけるなんて、俺は生まれた時から繰り返しているからな。今の俺が怖いのは、俺でいられなくなることかもしれない。
怖いからってやめちまうのは、きっと俺じゃない。それは多分、怖くないということとは違う。
「でも」
俺は言った。
「そいつがもう登りたくないなら、やめればいいじゃないか」
「……うん」
「登りたいなら登ればいい」
「約束があるよ」
「アイツの人生だろ」
ハイネが黙った。
「学校のことは知らないけど、おばあちゃんとは辞める約束だったんだって」
俺は、誰かに決められるなんて、絶対に許せない。
名前も。生き方も。自分がどこにいるかも。
昔はすべて、他人に決められていた。だから嫌いだ。
「白が決めればいいじゃないか」
しばらくハイネは何も言わなかった。それから小さく笑った。
「黒らしいね」
「何が」
「それ」
「意味が分からない」
「私ね」
ハイネがスマホを取り出した。
「昨日、白に聞いたんだ」
「何を」
「『もう、やめる?』って」
俺は黙った。
ハイネは昔から直球なんだよな。
「そしたらね」
ハイネが画面を見る。
「分からないって」
「じゃあ、分かるまで待てばいいじゃないか」
「……簡単に言うね」
「今決めなきゃ死ぬのか?」
「死なない」
「なら、いいだろ」
「なんだか本当にいい気がしてきた!」
ハイネが笑った。
今度は、少しだけ、きちんと笑っていた。
「答えは急がなくていい、か」
「何?」
「ううん」
ハイネがスマホを操作し始める。俺には画面に並んでいる文字は読めない。
「白に送るの?」
「うん」
「何て?」
「『答えは急がなくていいよ』」
「ほーん。いいじゃないか」
「黒が言ったって書いていい?!」
「やめろ、俺は言ってねぇ!」
「意味は同じでしょ?」
勝手にしろ。
名前を出すのだけは阻止した。
送信を終えたハイネがスマホをテーブルへ置き、残っていた炒飯を食べる。
顔色は戻ってきた。だが、まだハイネの眉は八の字のままだ。
「ねぇ、黒」
「何だよ」
「百階、もう行くんだよね」
「ああ」
「いつ?」
「まだ決めていない」
「珍しい」
「何が」
「黒なら、すぐ行くって言うと思った」
「百階は別だ。俺は仲間の命、預かってるからよ」
床も壁も身体にする階層支配者。
柴田が言ってた、狭間やら何やら。何が起きるか分からない。
「全員、万全の状態で行く」
「そっか」
ハイネは少し安心した顔をした。
「じゃあ」
「何だよ」
「死なないでね」
「おう」
「おう、じゃなくて」
ハイネが真っ直ぐ俺を見る。
「ちゃんと帰ってきて」
「……」
変なことを言う。
だが、ハイネのその気持ちだけは、身体が熱くなるほど感じていた。
帰ろう。
終わったら、ハイネの所へ。
「分かった」
答えると、ハイネが笑った。
「約束ね」
「終わったらちゃんと帰る。ハイネの家にな」
「あはは。お父さんいるよー?」
「あぁ……ハイネのお父さんな」
ちょっと面倒くさい人なんだよな。
だが、ま、久しぶりに遊びに行くか。
◇
ハイネが帰ったあと、さっきまで気にならなかった店の静けさが、妙に耳についた。
一人で店を出る。野毛の方へ続く道は、まだ明るい。
夜の街は好きだ。
人間も亜人も、まともではない奴が多めだ。そんな中に自分がいても、誰も気にしない。だから、好きなんだ。
歩きながら、さっきの話を思い出した。
……九十六階か。
黒くて小さい魔物、ね。明日、柴田に聞いてみるか。
そう思っていたところで、ふと、数日前の定食屋で見た三人が頭に浮かんだ。
金髪のエルフ。人の良さそうな男。うるさいじいさん。
『白も百階を目指しているので』
あいつらが話していた白と、ハイネが心配している白。
やっぱり、同じ奴だよな。
「……」
俺はポケットに手を入れた。勝手に言葉が口から出る。
「……ここで辞めるような奴には思えないな」
「誰が辞めるってー?」
突然、背後から聞こえた声に振り返る。
いつでも魔法を放てるように備えた。だが、意外にも見慣れた顔だった。
「藤井サン……」
「よぉ、黒。久しぶりだな。……元気そうだ」
そこには二メートルほどの大きな黒い影――ゴリラの獣人である藤井が立っていた。彼の後ろには、護衛だろう、似たような体型の男が二人。歓迎しているとは言い難い視線を俺に向けている。
「ずいぶん稼いでるみたいだな。探索者のほうも百階を目指すって?」
「店が儲かってるのはスタッフに恵まれただけですよ。俺は遊んでるだけですから。藤井サンだって、ずいぶん出世されたって聞きましたよ」
俺は、後ろの二人と藤井のものらしい巨大な車に目を向ける。
「ふんっ。俺はお前が生まれる前から汗水垂らして働いてんだから、当たり前だろ」
「そうですね。……行きますよ、百階」
「あそこに行く奴は半分が死ぬらしいな? 次にまた黒に会えるかは……五十パーセントか」
藤井がギャハハと笑う。つられて護衛が笑うと、藤井が睨んで黙らせた。
この男は、昔から心配してくれてんのかしてないのか、分からない。してんのかな。だが、藤井は最後に不穏な言葉を残した。
「それからよ、公蔵会の連中がお前のこと叩くって、息巻いてるらしいぞ?」
「どうせ、口だけだろ?」
「さあな……。黒。つまんねぇことで死ぬんじゃねぇぞ?」
俺は車に乗り込む藤井を見送る。
もう少しだけ、歩くことにした。




