第49話:空よ、人の望みの喜びよ
「マ、マジカルフロー・シーケンス・イニシャライズ」
友梨佳がオズオズと告げると、緑のフラコンが光を放ち宙に浮いた。
《変身シーケンスレディ、イニシャライズ》
v²/2+p/ρ+gz=const.
(わ、何これ?)
フラコンの表面に現れた式に驚く友梨佳に、ダニーはフラコンの中へと飛び込みながら答えた。
《物の流れを司る法則の一つ、ベルヌーイの定理である》
(……難しそう)
《式の意味を理解する必要はないのである。これから流体力学の魔法少女となるそなたは、式を理解せずとも感覚でそれが分かるはずである》
そしてフラコンの栓がひとりでに抜け、1滴の雫が友梨佳に垂らされる。雫が当たった場所からは、ライムグリーンの光とグレープフルーツの香りが広がった。
フラコンは空中を複雑な軌道で移動し、友梨佳の右手に収まる。そして、その姿を細長く変えていった。
ライムグリーンの光が収まると、友梨佳は緑にコーディネートされたコスチュームに包まれていた。右手には透明のオール、背には小さなジェットエンジンがついた翼が背負われている。
《シーケンスコンプリート。ヴォルテックユリカ、スタンディングバイ》
友梨佳は驚いて、自分の手足や持っているオール、衣装のあちらこちらを見た。
「すごい、本当に魔法少女になったみたい。ヴォルテックって、どういう意味なの?」
《渦のことである。その名は、そなたの内心に眠る激しい渦を表したものである》
「激しい渦……わたしの中に?」
《左様。では早速、学校にデショーンを倒しに行くのである》
「う、うん……」
友梨佳は玄関に向かおうと部屋のドアに手をかけた。
《窓から出たほうが良いのである。そなたは家の鍵を持っていないのである》
確かにその通りだ。玄関の鍵を開けっ放しにして出かけるより、窓が無施錠の方が多少はマシだろう。
「でも、ここ2階だよ」
友梨佳は眉を下げて窓の方を見た。
《問題はないのである。そなたは空気や水の流れを操る魔法少女である。空を飛ぶなど造作もないのである》
「本当かなあ……」
窓を開けながら不安そうにする友梨佳に、ダニーがアドバイスする。
《そなたには空気の流れが分かるはずである。その背中の翼は、流れに乗るための魔法のツールである。翼を流れに乗せ、意志の力で飛ぶのである》
友梨佳は窓の外を眺めた。
ゆるく吹く南風。日光に照らされた家々の屋根から立ち昇る空気。走る車の周りの乱れた流れ。塀の近くの空気の淀み……確かに何となく、感覚としてそれが分かる。
風が揺らぎ、カーテンを靡かせて部屋に入ってくる。それを翼に受けた友梨佳は、本能的に感じた。
(あ、飛べる)
ジェットエンジンの中でファンが回転し、吸い込んだ空気を圧縮する。ふわりと部屋の中で浮き上がった友梨佳は、窓から外へと飛び立った。
「すごい!すごい!」
飛び立った友梨佳はまず、大きく高度を上げた。空気の流れが読める友梨佳は、飛ぶことに全く恐怖を感じることはなく、その心は歓喜に満たされたのだった。
◇
《友梨佳君、そろそろ目的を思い出すのである》
ひとしきり空を飛び回った頃、ダニーの声が脳裏に響いた。
「あ、デショーンをどうにかするんだった」
《左様。学校へ向かうのである》
そう言われて高度を落とす友梨佳。だが、空から自分の住む町を見るというのは、思った以上に異次元の感覚で、学校がどこにあるのかよく分からない。
結局、何とか見覚えのある場所に降りた彼女は、地表スレスレを飛行して学校に向かうことにした。
初めての飛行に興奮した彼女は人目を気にするということを忘れていた。だがその姿はひどく目立ち――この町に小さな魔法少女が現れたことはあっという間に知れ渡った。
◆
友梨佳の前にダニーが現れた日の朝、友梨佳が籍を置く3年2組では、先月行われた全国統一テストの結果が返却された。
結果を見た男子児童の一人、須藤 烈は表情を曇らせていた。いつもなら100点が当たり前の算数は、今回は80点だった。
(……運が悪かった。ママ、怒るだろうな)
そんな彼は、職員室に向かおうとする担任の独り言を聞いてしまった。
「伴地さんにこの結果を送らないと……社会以外満点とはさすがね。これで少しでも自信を取り戻してくれれば……」
その情報は、彼の激しい怒りを呼び起こした。
(あの算数女、絶対ズルをしてるんだ。今も毎日ズル休みして……)
教育熱心な彼の母親は、有名中学校への受験のために彼を毎日塾に行かせ、勉強量を厳しく管理している。
彼の成績は相当優秀な部類だが、上を見ればキリがない。どんなに頑張っても認めてくれない母親の態度は彼の心を擦り切れさせ――教室では明るい人気者の彼だが、その内心はストレスで軋み荒んでいた。
だから、彼は友梨佳を突き飛ばし、友達と一緒になって悪口を言ったのだ。
いじめの件は担任から厳しく指導された。家では内申に響くとヒステリックになった母親に、激しくひっぱたかれた。彼はますます意固地になり、もはや、友梨佳は不正により成績を維持しているのだと、心の底から信じるようになっていた。
だから、休み時間、お腹が痛くなった彼はトイレの個室で呟いたのだ。
「あの算数女、またカンニングしたんだ。クソ……絶対カン、カン、カンカンカンカンカカカカカカッ」
トイレの個室の仕切りの上には、アンチ・メントル、ジョセフ・マッカーシーが腰掛け、片手で真っ黒なフラコンを弄んでいた。
「いやあ、子供というのは簡単に偏見に染まるものですなあ。しかも自主的に!あまり強いデショーンにはなりにくいのが玉に瑕ですが……この仕事は楽でいい」
『絶対、カンニングデショーン!』
そのデショーンは肥満体の女児をその体型のまま身長200cmにしたような姿で、顔には狐の面を被っていた。
バキバキッ!
デショーンはトイレの個室のドアを破壊すると、廊下へと走り出た。
『カンニングデショーン!』
その後には点々と水の雫がこぼれている。デショーンは、泣いているのだった。
【タイトルの元ネタ】
J.S.バッハの有名なコラール「主よ、人の望みの喜びよ」(1723年)




