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第16話:Have you no sense of proper prejudice, little girl, at long last?

「愛彩ちゃん、そろそろ開店時間よ。もう帰らないと」


市内の悪所、大発展通り――その一角にあるオカマバー「夜光蝶」。カウンターで宿題をしていた愛彩に声をかけたのは、華やかな衣装の下に鋼の肉体を隠したマスター、かおるである。


「うん、今日もありがとう」


「お母さん、今日も遅いのかしら?」


「ううん、選挙はこの間終わったから……今日は帰りが遅いとか、そういうことは言ってなかった」


「そう……もう暗いから、気を付けて帰るのよ」


「わかった」


愛彩が放課後をここで過ごすようになったのは半年ほど前からだ。彼女の母、塔子が政治活動に傾倒するようになり、夜まで家を空けがちになったのがその理由だ。帰宅しても家に誰もおらず、施錠されたままだったので外をフラついていた愛彩を、かおるが保護したのがきっかけだった。


それ以来、愛彩には自宅の鍵が持たされるようになったが、彼女は誰もいない家に帰ることも、それ以上にやれ署名だ、やれアピール行動だと政治にのめり込む母の姿を見ることも嫌で、よく夜光蝶に入り浸っているのだ。


「不憫ね……」


店に残されたかおるはポツリと呟く。


母親は愛彩に対する興味を失ってしまったように彼女に構わなくなり、暗くなってから帰宅しても叱りもしない。残業続きで気の弱い父親は家では空気。かおるはそんな事情を知っているのだ。


なお、暗くなり活動を始めた悪所、大発展通りを歩く愛彩に危険なことが起きることはない。この地域で、オカマバー「夜光蝶」の関係者に手を出すような痴れ者に明日はない……そのように誰もが認識しているのだ。



暗い気持ちで帰宅した愛彩が見たのは、異様な光景だった。


いつも家にいる間はノートパソコンを開き、SNSをチェックしたりブログを書いたり……そんなことばかりしている母が、今夜は食卓でビールを傾けている。その傍らには何とメントル――生え際の後退した、スーツを着たオッサンである――がいて、母のグラスにビールを注いでいるのだ。周囲に散らかっているのはコンビニの冷食を温めたもの。一応、愛彩の夕食もあるらしい。


「いやー、奥さん、それにしても立派な思想をお持ちですよ。あたしゃアメリカ人ですがね、自国である日本の伝統や文化を守るってあなたの考えは尊い!さあ、もう一杯やってくださいよ!」

「分かる?日本は密かに外国人に支配されそうになっているのに、自明党に洗脳された国民には分からないのよ!」

「ええ、ええ、そのお気持ち、よーく分かりますとも!共産主義やらイスラムやらってのはね、とにかくどこにでも入り込んでくるもんです。そういった連中を見つけ出して追放する、これが大切なんだ」


愛彩は、そのメントルから脂ぎった加齢臭が漂ってきた気がして思わず鼻に手をやった。2人は彼女が帰ってきたのに気付きもせず、そんな会話を続けている。オッサンメントルに持ち上げられた母は服の袖で涙を拭った。


「娘も夫も、私の言うことには耳を貸してくれなくて……私、辛くて……」


「ただいま。そいつ、何?」


ダイニングに踏み込みながら声をかけると、滅多に掃除のされなくなった床に転がった綿埃が、愛彩の足元でふわりと舞った。


「あー、あなたが娘さん?あたしゃ、ジョセフ・マッカーシーといいましてね、秘密結社バイアースでアンチ・メントルなんて仕事をしとるんですわ」


「お母さん、これ、外に捨ててくるね」


ジョセフをつかもうと伸ばした愛彩の手は、母に遮られた。


「ダメよ愛彩。この人は花札党の考えに共感してくださったのよ」


「そうですとも。あなた、折角立派なお考えのお母さんをお持ちなのだから、ちゃんと言うことを聞かないとダメじゃありませんか」


「わたしは、お母さんを否定したりしてないよ?」


するとジョセフはニヤニヤした笑いを浮かべながら愛彩に向かって飛んできた。先ほど彼を捕まえようとした愛彩だったが、その異様な気持ち悪さに後ずさってしまう。そして、彼は額にぶつかるのではないかというほど近付いて来て、言った。


「だが、共感してもいない」


壁際に追い詰められながら、愛彩は横目で母を見た。母は、ビールの入ったグラスを空にすると、それをカンッとテーブルに置き、据わった目で吐き捨てた。


「そういう娘なのよ、その子は。学校にイラン人がいるっていうし、きっと、売国勢力に育つんだわ。小さい頃にワクチンなんか打ったから……」


「ほお、イラン人!それは危険ですなあ」


そう言うとジョセフは今度は母の方へ飛んでいく。そして、いつの間にか持っていた真黒なフラコンの栓を抜き、1滴、禍々しい色合いの雫を母の頭に垂らした。


「イラン人なんて、テロ、テロ、テロ、テテテテテテテテテテ……」


母の様子がおかしくなったことに、愛彩は顔を青くした。その体はむくむくと膨れ上がりながらやがて昼間見たのとよく似た青い肌のジンの姿へと変わっていく。


『イラン人ナンテ、テロリストデショーン!』


そして一言咆哮すると、ダイニングの掃き出し窓を破って外に飛び出していった。


「はあ〜。良いことをすると気持ちが良いですなあ。共産主義、同性愛、イスラム……社会を蝕むガン細胞は、丸ごと取り除くに限る。そうは思いませんかね?」


そう告げたジョセフの姿がすうっと消えていく。愛彩はそれを見ているしかできなかった。そして、はっとしたように玄関に駆け戻ると、靴を履いて外に飛び出した。


『デショーン!』


叫びを聞いて、その位置がまだ遠くないと考えた愛彩は、声に向かって駆けだして行った。

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