96. 開始
リュカとはそれ以降口をきかなかった。最低限の情報共有にすら協力してくれそうになかった。だらだらと時間を潰して、頃合いになったかと思い腕時計を見る。ガレージからレース場に、カインを移動させる時間だ。端末を弄る彼女に、リエラとカインを移動させてくると伝えるとあわや大騒動になりかけた。黙っておいた方が良かったかもしれないと、控え室を出てから思った。
ガレージではリエラが既に待っていた。片手を上げて軽く挨拶すると、すぐにこちらを向いて会釈される。こんなに育ちがいいのに、どうしてこんなところにいるのだろう。初めてそんなことを考えた。
カインの乗り心地は最高だった。細かいところの修復箇所なども聞いていたが、恐らく私の癖に合わせてそれ以上に弄られているだろう。それでいい。それがいい。カインは私のものだ。私の手足のように動かせなくては困る。
リエラの服装は、いつものような作業着ではなく、レース用のものに変わっていた。華やかで上品なメイクが施されて、バディと対であろう紫のアクセントが入った艶やかな黒のパフォーマンス・スーツを身に纏っていた。身長の高い彼女には、すらりとしたスラックスはよく似合っていた。
カインの主運転手のコックピットから下りてきた彼女を見て、違和感を覚える。彼女にこのカインは似合わない。彼に似合うのは、リュカだ。
賑やかになってきたレース場で、柔和な笑みを浮かべたリエラに話しかけられた。彼女は最低限の言葉だけ述べて、頭を下げて去って行った。あとの私に残されたのは、リュカとのレースだけだ。
周囲を一周、ぐるりと見渡す。見上げる位置にある、観客席と実況席。今日に限っては、実況席の横にはお偉いさんがお出ましになるようだった。VIPである観客ですらも抑えてそこに座れるのは運営の人間くらいだろう。
道幅は狭い。レース場で一列縦隊になって連なる機体を追い抜くのは不可能だ。当分先まで、戦略を練ることはできない。頭を振って嫌な想像を追い出した。少なくとも一機は潰されるのが確定している。他のことを考えよう。
喧騒ばかりが耳についた。既に席に着いた観客から野次を飛ばされているのだ。グランプリでの成績はトップであったにも関わらず、最後尾スタートの私を見て、好き勝手なことを言っている。それが手に取るようにわかった。明らかにこちらを指さしながら、騒ぎ立てる観客がよく目についた。きっと、最後尾スタートの理由すらも流出していることだろう。
「ふっ」
小さく笑みが零れる。一番近くにある観客席に、見せつけるように手を振って、建物に入ることにした。
控え室には、レーサーたちのほとんどが集結していた。イズモとスサミ以外の全員が揃っているのではないだろうか。そんな中でも、リュカは動じることも臆することもなくいつも通り真ん中の椅子に腰かけていた。彼女も、私と対のあのジャケットを羽織っている。一定のリズムを刻む右足の爪先が、私が近づいたことで止まる。
他のレーサーたちの声も、心なしか小さくなったように感じた。周りの視線に自分たちが晒されていることに、嫌というほど勘付かされた。
でもそれがなんだというのだろう。
勝ったって負けたって、周囲の注目を浴びることに変わりはないじゃないか。
リュカの前に立つ。彼女の罅の入った端末に映っていたのは、最新シリーズの機体の性能のページだった。
「リュカ」
私の一言で、控え室が水を打ったように静かになった。誰もが、リュカの次の行動に注目している。彼女がどう出るかを見ている。
端末のページを閉じて、ジャケットのポケットに端末をしまった彼女が、鬱陶しそうに立ち上がる。その様子をすべて私は見つめていた。その一挙手一投足を、克明に記憶しようとしていた。
こちらを向く前に、瞬きが繰り返される。パールの入った白から、目の淵に向かって目を引く鮮やかな黄色のアイシャドウが施されていた。アイラインは濃い茶色だ。跳ね上げるように描かれた線が、彼女の強さを表しているかのようだった。マスカラを付けているのだろうか、普段よりも睫毛が長く見えた。ここ最近リエラの顔ばかり見ていた影響かもしれない。
ネイルはクリアなものを選んだようだった。必要以上に飾りすぎていないのが、服装とメイクをより一層強烈なものとして引き立てているようだった。艶やかなグロスの塗られた唇が、ゆっくりと動くのが見えた。
「…遅い」
虚を突かれた気分になって、一瞬だけ目を見開く。初めて私が副運転手を務めたときの会話だ。
口の端が吊り上がった。
「…ごめんなさい、勝手が違うので。」
彼女の目が挑発的に歪んだ。そのまま私の横を通り過ぎて、扉へ向かっていく。それを三歩遅れて追いかける。
わざと控え室の中で聞こえるように問いかけられる。
「案内してよ。アンタの機体でしょ?」
「…もちろん」
扉を開けて待つ彼女に先行して、私は控え室を出た。
背後で、重たい鉄の扉が閉まる音が聞こえた。
会話もないまま、冷たくて無機質な廊下を通って、明るくて騒がしいレース場へ向かっていく。私のハイカットブーツの重たい音と、彼女のピンヒールの甲高い音が交互に反響する。切り取られたように入り込む外の光が途切れるところで、足を止める。彼女の足音も止まった。
「イヤホン、なしだろ」
「…それが何?」
苛立ったような彼女の声が後ろから聞こえる。
「私は、トカラの再演をしてみせる。リュカは、イズモの再演を、頼みたい。」
呆れたような溜め息が聞こえた。右肩を叩かれて、真横に並ばれる。
「そうしないと勝てないの、ウチだって分かってる。」
彼女の足が、光の中に踏み込んだ。
「行くよ」
怖気づいている暇なんて、ありはしない。
コックピットに乗り込めば、時間なんてあっという間だ。いつもと違って、周りの音が両方から聞こえてくる。信号は見えにくい。いつもの合図が無ければ、反応が遅れるかもしれない。
右耳に手をやって、いつもの機械がないことを思い知らされる。
舌打ちして、前に向き直る。
実況解説が大きくがなり立てるのが聞こえた。
観客がいっそう沸き立つのが聞こえた。
メインハンドルをきつく握り直す。
霞む視界の奥に、小さな光が見えた。
信号が3つ、2つ、1つ。
その瞬間にアクセルを踏み込む。
さあ、レースの始まりだ。




