94. 前夜
昼近くになるまで、結局リエラは私の家にいた。なぜなら服が乾き切らなかったのだ。また自宅に来させるのは嫌だったので、どうしても昨夜着てきた彼女の服に着替えて出て行ってもらいたかった。
彼女を送り出すと同時に、自分もクリーニング店に向かうことにした。ジャケットを何とかしてもらわなければならない。店頭で状態の説明をするとかなり嫌な顔をされたが、定価よりも金銭を弾むことで解決した。あれは私の手には負えない。
家に戻ってからも、やることはなかった。普段だったら整備に明け暮れているだけの日々を送っているのだ。誰かに連絡を取る必要もないし、誰かから連絡が来ることもない。知り合いはほぼいないに等しい。
試走ができないという制限を課せられた今、レースの感覚を失わないためにできることは、一つしかなかった。過去のレースを見るのだ。それこそ、記憶端末が擦り切れてしまうまで。
そこから数日間、私はずっと父とイズモのレースについての研究に没頭した。見るだけで感覚が研ぎ澄まされるわけではない。それでも、何もしないよりはずっといい。特に、父の運転の様子は夢で見るほどに繰り返し見続けた。
彼らがバディとして活躍したほとんどのレースを見る中で、特に印象に残ったものがある。それこそ、スサミの言っていた彼らの初出場だ。その会場には、どうにも見覚えがあった。アスファルトで舗装された道路、道中に点在する廃屋、そして直角に曲がるコース。火の手が上がったのは、カーブを曲がろうとするその瞬間だった。機体にもその火が移っていたが、臆することなくそのまま彼らは会場まで突っ切って行った。
それを見ても、何の感情も浮かばなかった。ただ異様なほどに記憶に残っただけだった。
グランプリ決勝戦の前夜に、リエラからの連絡があった。カインを見てもらいたいという趣旨だったため、チェスターコートを羽織ってガレージに向かう。今夜はシャッターは開けられていなかった。到着するや否や、彼女に今まで見たことがないほど歓迎された。
それを適当にあしらって、カインについて訊く。どこを触ったのか、どのエンジンを積んだのか、修理箇所は、費用は。矢継ぎ早に重なる質問にも、リエラは躊躇うことなく答えてくれた。それぞれの答えに満足して、後日口座に必要経費を振り込むことを約束する。
「ああ、そうだ」
ふと思いついて、踵を返しかけた身体をリエラに向け直す。つかつかと歩み寄って、彼女の首に腕を掛ける。少しだけ背の高い彼女が、私に合わせて屈んだのが分かった。耳元に口を寄せる。
「明日のレース、期待してるから。」
私の言葉を聞いて甘美な声を上げた彼女に悪戯心が沸いた。右手で顎を擽って唇を奪う。そのまま舌も絡めてやれば、彼女の腰が砕けた。私の服を掴むようにして、腕に縋りつかれる。鮮やかなリップの塗られた唇を軽く嘗めて口を離してやれば、彼女は地面にへたり込んだ。
それを見下ろして、端的に別れを告げる。開けられたままの扉から外に向かおうとすると、一瞬影が動いたのが見えた。
誰かに見られていたかもしれない。心当たりのある人物の顔が思い浮かんだが、明日何とかすればいいと思った。
次の日の朝は、見事な快晴だった。




