91. 篭絡
浴室から上がると、どういうわけかタオルも着替えも何もかも用意されていた。どう考えたってリエラがやったのだろう。嗅ぎ慣れた自分の使っている柔軟剤の香りがするバスタオルに顔を埋める。それでも、身体はもっと甘い香りを求めていた。
手早く身体の水滴を拭い取って、着替えを身につける。髪は雑にタオルで拭うだけにして、早足でダイニングに向かう。
リエラは上着を脱いで、カウンターの椅子に腰かけてマグカップを傾けていた。その表情は読み取れない。彼女の身体も冷えてしまっているのではあるまいか。室温は暖房のおかげでずいぶんと快適だったが、それでも濡れた服を身につけ続けるのはあまりよろしくない。そんなことを考えながら、肩に掛けたままのタオルもそのままにリエラに近寄る。
「リエラ」
今度こそ、言葉は震えていなかった。彼女がこちらを向くまでのたった数秒が、異様に引き伸ばされたように感じた。雨足が強くなったのか、窓に打ち付ける雨の音が激しい。
瞬きをした彼女の目が、こちらに据えられる。その両目の奥に、渦巻く欲望が暴れているのを、彼女の静かな理性が抑えこんでいるのが見えた。
「…お早かったのですね…」
先ほどまでのような、柔らかな声ではなかった。どことなく、沈んだ声に聞こえた。
そのトーンを聞いて咄嗟に身構える。
彼女も、私に、何か、思っているのではないか。
「…そんなお顔を、なさらないでくださいまし…?」
ゆっくりと立ち上がる彼女の影が、私の足元に伸びる。
「わたくしは、セイカさまの、味方ですのに…」
靴下のおかげか、彼女の足音はしなかった。目の前にやってきた彼女が、口調とは似合わないような穏やかな笑みを浮かべる。
「お飲み物、ご用意しますわ、セイカさま。お紅茶でもよろしいですか…?」
「…なんでもいい」
彼女の横を通り過ぎようとして、右腕を掴まれる。タオルを引っ張られて、目の前が真っ白に覆われる。軽く喉が鳴った気がした。
「もう、乱雑なんですから…きちんと乾かさないと風邪をひいてしまいますわ、セイカさま。ソファにお座りくださいませ、ドライヤーを持って参りますわ。」
どことなく楽し気な彼女の言うとおりにすることにした。
もう、なにもかも、なんでもよかった。
ソファに座ったまま、自分ではしないほどに丁寧に髪の手入れをされて、温かなマグカップを手渡される。そのまま口に運んだが、火傷はしなかった。身体の芯まで温かくなっていくような、ちょうどいい温度の紅茶だった。タオルとドライヤーを片づけたリエラがダイニングに戻ってきて、当たり前のようにソファの隣に腰かけられる。彼女の手元にマグカップはなかった。
しばらく無言の時間があった。
彼女から漂う甘い香りと、自分の手元から立ち上る好きな紅茶の香り、そして身体に伝わる温かさが、私を安心させたようだった。
気づけば、頬を温かいものが伝っていた。
それを見たリエラが、私の両手に握られたカップを優しく取り上げて、肩を抱き寄せられる。耳元で幼子に言い聞かせるように告げられる。
「セイカさま…ここには、わたくししか、おりませんわ…」
短く息を吸い込むことしかできなかった。もう、涙の制御なんてできなかった。人の前であることなんて気にしていられなかった。
リエラの胸に顔を埋めて、私は声を上げて泣いた。
ただひたすらに泣き続けて、頭がぼーっとしてきた頃になって、彼女に声を掛けられる。気分はいくぶんか晴れていた。涙も止まっている。どのくらいの時間が経ったのだろう。
「…落ち着きましたか…?」
少し鼻を啜りながら短く答える。酷い鼻声だ。
「…だいぶマシ、ありがと」
彼女から身体を離しながら、テーブルの上に置かれたマグカップに手を伸ばす。紅茶は冷めきってしまっていた。彼女の服も酷いことになっている。
「…お風呂、入ってきなよ。服も、貸すから。」
彼女がぱちぱちと目を瞬く。それほど不意を突く発言をしたつもりはなかったのだが、それほど私の言葉は珍しかっただろうか。
少し頭ががんがんしてきた。眠った方がいいかもしれない。動きの鈍い彼女を浴室まで追い立てる。着替え一式を持ってくることを告げて、寝室に向かう。クローゼットを開けて、部屋着にしている服の中でも最も綺麗なものを選ぶ。そういえば、今私の着ている紺色のパーカーと黒のスウェットパンツは、普段から部屋着にしているものだ。どうやって、彼女は私のいつもの服を選んだのだろう。
着替えを運んで、一度顔を洗う。これは明日になったら目の周りが腫れるかもしれないと思った。そのままキッチンに行ってからポットで湯を沸かす。彼女の使っていたマグカップは、あの夜に白湯を淹れたものだった。空になっていたカップを一度濯いでから、紅茶のティーバッグを入れて、沸いたお湯を注ぐ。彼女が上がってくる頃にはちょうどいい温度になっているだろう。ついでに自分のカップにも紅茶を淹れなおすことにした。
ソファに腰かけて、横になる。あっという間に私は睡魔に呑まれていった。
ふと目が覚めると、身体にはブランケットが掛けられていた。カウンターの椅子に座るリエラの姿には見覚えがあった。彼女の髪は綺麗に乾いていた。
「…どのくらい、寝てた…?」
こちらを振り返って、微笑みを浮かべられる。
「わたくしがここに座ってから、まだ五分も経っておりませんわ。」
するりと椅子から滑り降りるように立ち上がった彼女が、まだ横になったままの私の元にやって来る。
「もう少しお休みになっていても、よろしかったのに…わたくし、セイカさまの寝顔を見るのも、好きでしてよ…?」
頬をするりと撫でられても、拒否する気にはならなかった。そのまま心地よさに目を瞑る。額に口付けが落とされたのが分かった。
「お紅茶もいただいてしまいましたし、お風呂もいただいてしまいましたのに、わたくしに返せるものはございませんわ…セイカさま。」
悲壮な感情を湛えた目を向けられるが、その奥で燃え盛る欲の業火を、私は見逃さなかった。
泣いて、ここまで溜め込んできたものを吐き出して、眠って、自宅で落ち着いた状態になれば、自然と人間は回復するものだ。
思考は、冬の乾いた晴れの日の空のように澄み切っていた。
「いるだけで、充分だから。」
そう言って彼女の首筋に手を伸ばす。
彼女の眦が下がって、ゆうるりと目が閉じられる。長い睫毛が、その顔に影を落としていた。
鎖骨のぎりぎりまで手を滑らせる。親指の腹で、彼女の喉を摩るように撫でる。
そのまま、細くて色白の首を掴みあげた。
「この前のこと、全部吐いてもらおうか。それが対価だ。」
リエラの唇が、にんまりと吊り上がった。




