90. 陥落
訳も分からず走り続けて、いささか息が苦しくなって徐々に速度を緩める。息を荒げながら、踏み出す足が少しずつ遅くなる。ばしゃりと水溜りを踏み抜いて、スラックスの裾に冷たい感覚が広がった。
無我夢中だった割には、きちんと帰路についていた。握りしめた傘の柄が温くなっているのに気付き、やっと差していなかったことを思い出す。それでも今更だろう。下着まで余すところなく濡れるほどに雨に打たれた今、傘を差したところで、何も変わりはしない。
足を止めたら、もう動けなくなりそうだった。機械的に左右の足を交互に前に出す。家はもう遠くない距離までやってきていた。十字路に差しかかって、思わず足が止まりかける。
このまま曲がれば、ガレージに着く。
このまま真っ直ぐ行けば、家に着く。
考えるまでもない。横断歩道の信号も無視して道を曲がろうとして、目の前をクラクションを鳴らしながらトラックが通って行った。危ういところで踏み止まると、太いタイヤが巻き上げた水が身体にかかった。舌打ちをして、左右を見てから走り出す。
私にその資格は無いのかもしれないけれど、カインを一目見たかった。
ガレージに駆け付けると、煌々と明かりが点いていた。正面のシャッターが開いている。またか。今度の侵入者は誰だ。そう思いながらガレージに踏み込んでいく。屋根下に入ると、私の足元から灰色のコンクリートに黒い染みが広がった。カインはあと数歩のところに鎮座している。それでも、私が近づいてはならないように感じた。私が、この聖域を汚している。
少しだけ俯く。ここに私の用はない。目を瞑ると、髪から滴った水滴が頬を伝うのがわかった。踵を返そうとして、置くから聞き覚えのある声が聞こえた。
「…セイカさま…?」
目を見開いた。思わず勢いよく振り向く。カインの奥にいたのは、リエラだった。
口元がわななく。私のことを、セイカ、だなんて。
「どうされたのですか…!?そんなに濡れてしまって…!」
そういって工具を置いた彼女が足早にこちらに寄ってくる。その勢いに圧されたのか、一歩、二歩、と足が後退る。握りしめていた傘が手から落ちる。意識もしていないのに、勝手に身体が動いてしまう。その様子を見たリエラの顔が怪訝そうに歪む。
「セイカ、さま?」
「リエ、ラ…」
言葉尻が震えた。何に対して私は震えているのだろう。寒さだろうか。それとも、カインの存在感だろうか。リエラへの恐怖だろうか。私の、偽り続けてきた自分自身の存在への罪悪感だろうか。
目を細めた彼女が、私の右手を掴んで軽く引っ張る。つんのめるようにして、私は彼女の胸の中に収まった。
「こんなにお身体が冷え切ってしまって…寒いのでしょう…?セイカさま…」
濡れ鼠になった私の身体を気にすることもなく、彼女が私を抱きしめる。濡れた服越しに彼女の体温が移って温かさを感じた。
自分以外の人間の体温を感じるのは、久々だと思った。
抵抗することもなくそのまま彼女の腕に抱かれる。目を瞑ると、いつものように甘い香りが私の胸を満たした。そのまま大きく吸い込んで、細く吐き出す。前に感じていた嫌悪感はなぜか今はなかった。
「ご安心くださいませ、わたくしは、ここにおりますから…」
そう言って彼女の腕に少しだけ力が込められたのが分かった。一瞬だけ息が苦しくなって、身を捩る。それに気付いたのか、彼女は私を解放した。温かさが離れて行って、思わずその身体に擦り寄ってしまう。今はただ、温もりが欲しかった。
リエラの小さな笑い声が聞こえた。濡れそぼった髪を撫でられる。そのまま撫でる手は降りてきて、耳たぶを擽って、顎にかけられる。上を向かされて、妖艶な目を湛えた彼女の瞳と視線がかち合った。
そのまま私は、彼女の口付けを受け入れた。
熱い唇が離れて行って、そのまま耳元で囁かれる。
「おうちに、帰りましょう…?セイカさま…」
操られるように頷いて、彼女に導かれるようにして私は家路につくこととなった。ガレージの片付けは彼女がすべて担ってくれた。それをぼんやりと待っている間にも、彼女は時折私に呼びかけ続けてくれていた。彼女が差してきたのであろう傘に、肩を抱かれるようにして一緒に入って、足を家に向ける。
どうしてリエラが、私の家までの案内をできるのかなんて、頭の隅にすら過らなかった。
「鍵は、ございますか…?」
家の扉の前で訊かれる。こっくりと頷いて鍵を開けて、彼女に促されるままに家に上がる。もう自分の意志なんてどこにもないようだった。私の傘と、ここまで差してきた彼女の傘が二つ、扉の横に掛けられる。
雨水を吸って脱ぎにくいブーツと格闘していると、三和土に腰かけるようにリエラに指示される。すとんと座り込むと、彼女が私の前に膝をついてブーツの靴紐を解いていった。足首を掴まれて、ブーツから抜かれる。履いていった靴下も、もちろん濡れていて、そのまま家に上がれば廊下は水浸しになるのは目に見えていた。
ほっそりとした彼女の手が、私の靴下を脱がせにかかった。もう何もしようとは思わなかった。彼女のされるがままにして、何もかもを任せる。
裸足になったところで、両手を掴んで立ち上がらせられる。ふらついたところを、彼女に抱きとめられる。
「…シャワーを、浴びて来てくださいませ、セイカさま。少しでも早く、お身体を温めなければ…」
あっという間に自分の靴を脱いだ彼女が、私の背中を軽く押す。彼女はそのままキッチンへ向かったようだった。
洗面所で、肌に張り付く服を何とか脱いでいると、浴室の扉越しにリエラの声が聞こえた。
「上がったら、温かいお飲み物を用意しておきますわ、セイカさま。それでは、ごゆっくり…」
返事はしなかった。レザージャケットを洗濯機の上に置こうかと考えて、手に取ったまま私は固まっていた。
スズメバチとしての正装は、濡れて形が崩れていた。
手からジャケットが滑り落ちる。
べちゃり、と嫌な音を立てて、ジャケットは足元に落ちた。
それに目もくれずに下着を脱ぎ捨てて浴室に踏み込む。蛇口を捻って少し待てば、思わず爪先が丸くなるほどのお湯が出てきた。
そのまましばらく、私はお湯に打たれていた。




