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Drused Race  作者: 鈴生
始末
89/100

89. 露呈

 雨音だけが支配する空間で、私はただじっとしていた。

 何をする気にもならない。動かなければいけない、のだろう。立ち上がらなければいけない、のだろう。分かってはいた。でもそれが、うまく身体に伝わらない。

 大粒の雨が髪を濡らして、じわじわと水溜まりを作っていく。適当に括っただけの髪は倒れた拍子に解けて、地面に無造作に散らばっていた。目の中に雨粒が入って、強く目を瞑る。目尻に水が伝っていく。

 アスファルト敷きの地面は冷たかったはずなのに、体温が移って温くなったように感じた。


「いつまでそうしている気だ。」

 屋根下から一歩も出てこないイズモに呼びかけられる。彼の手元に傘はない。晴れるまで彼は帰れないだろう。いや、それとも、誰か迎えに来るのを待っているのだろうか。無機質な建物をぼんやりと眺めて、答えるまでの時間を稼ぐ。彼にはお見通しかもしれないが、言葉を悩んでいるように見せたかった。

 時折目に直接入る雨粒が痛い。目を閉じてしまった方が楽だ。口を開くのも嫌だ。思考も何もかも手放せたらよかったのに。カインも、リエラもリュカも、レースも生活も呼吸も脈動も何もかも、手放せたらよかったのに。


 カインと、リエラと、リュカ。

 崇めるものと、欲するものと、信頼すべきだったもの。

 私が裏切ったのは、ずっと裏切ってきたのは、どれだろう。


 どれだ、なんて愚問だ。

 きっと最初から全部、私は裏切ってきた。

 そうなのだろう。

 私は、気付いていなかったけれど。


「ふ、」

 妙に笑いが込み上げてきた。笑っているのではないかもしれない。不規則に息を吐き出しているだけかもしれない。

「くは、」

 意識もしていないのに、口から空気が零れる。口に雨が入り込んできた。それでも、そんなこと気にならなかった。

「ははっ、」

 自分がどんな表情を浮かべているのかすらわからなかった。


 場違いにけらけらと笑い転げ続ける私に、イズモが何か口を挟む様子はなかった。何をするでもなく、どこを見ているのかも分からない目で、私の方向を眺めていた。辺りが暗くなり始めて、彼の表情を読み取れない。

 情緒も何もかも制御できないのに、頭の一部だけが不思議と冷静になって、少し離れたところにいるイズモのことを考える。


 トカラと、イズモと、スサミ。

 親交のあった若手レーサーたち。

 稀代のバディと、蚊帳の外に置かれたもの。

 今は亡き天才と、それを追い求め続ける王者と、止めきれなかったもの。


 すう、と頭の芯が冷え切った感覚があった。

 私と、まるきり同じではないか。イズモは、これすらも見抜いて、同じだと言ったのか。私の、カインに対する執着と、私を求め続けるリエラと、引き止めようとしていたリュカ。

 ふと、スサミの、あの落ち窪んだ目が思い起こされた。

 彼は、スサミは、イズモのこの異常な執着を目の前で見続けて、何もかもを諦めてきたというのか。稀代のバディの片割れとして、この異様さを、この背筋も凍るようなこの妄執を、父の亡き後からずっと、その身に浴びてきたのだろうか。


 急に寒気を感じた。手放して転がっていた傘に手を伸ばす。なんとか掴んで、地面に手をついて立ち上がる。髪が濡れて不快だった。服も身体に張り付いている。小刻みに震える身体を抑え込むために、自分を抱え込むように両手で腕を摩るように握りしめる。震えで傘の先から水が振り落ちているのが見えた。

「イ、イズモ、さん」

 声も震えてしまっていた。寒い。ただひたすらに寒い。今はそれしか考えられなかった。

 それに対して、感情の温度を感じられない声で、イズモは言った。寒さに震える様子も、恐れる素振りも何もない。淡々と、紙に書かれたことを読み上げるかのように言葉を並べていく。

「十五分か。トカラよりは随分早かったな。挫折の経験が多いのか?」

 それを聞いて、奥歯が噛み合わなくなるほどに、身体の震えが大きくなっていく。

 それでも、聞かなくては。

「ち、父、は、イズモ、さんに、とって、な、なんなん、です、か?」


 一瞬だけ間が開いた。彼が片眉を吊り上げて、小首を傾げる。なんだか見覚えのある仕草だった。

「全てだが。」

 さも当然であるかのように告げられて、絶句した。私の様子を気にすることもなく、彼は口を開く。

「グランプリ創設は、トカラへの償いだ。俺の手で、俺の理想は失われてしまったからな。それも結果だけ見れば、の話しだがな。」

 一瞬だけ目を伏せた彼が、言葉を区切る。


 身体の震えは、幾分かマシになっていた。その代わりに、ふつふつと怒りが煮え滾っていく。イズモは、父を、トカラを、何だと思っているのだ。

 父は、彼のためだけに生きていたわけではない。

 父は、彼のために、利用されていい人間なんかじゃない。

 もっと普通の、いや、それよりも酷い扱いを受けてもいいような、そこらにいるような人間だったのに。

「…トカラは、俺が勝つとそれはそれは喜んだ。今も、それは変わらないはずだ。稀代のバディとして組んできた俺ができるのは、それくらいだ。」

 言い淀む様子すら、見られなかった。世の理でも口にしているかのように、彼の言葉には躊躇いがなかった。

 それと同じくらい、トカラの人間としての尊厳に対する思いも、感じられなかった。

 まだ何か言おうとしている彼に、吠えるように噛みつく。

「ふざけないでください!!」

 身体は震えている。それでも、これは、寒さじゃない。

「父のこと、悲劇のヒーローにでもしたいんですか!!単なる信仰の対象にしか過ぎないとでも言いたいんですか!!父だって、一人の人間だったのに!!」


 息を荒げている私に、雨よりも冷たい水をぶっかけるような言葉が投げつけられる。

「大して自分の父親のことも知らなかった娘風情が、俺に説教か。いい身分だな。所詮スサミに聞いただけの話で、俺に何か言えるとでも思ったか。」

 唇を噛み締める。犬歯が突き刺さって痛みを感じた。

「身の程を弁えろ。たかが娘の立場で、何が言える。」

 初めて、イズモが感情を露わにしているところを見たかもしれない。なんとなく、そう思った。

「勝つために、手段を選ぶつもりはない。ここがどこだか忘れたか。ヤクモ。」

 陽はどんどん落ちていく。彼の顔もよく分からなかった。遠くの道に点在する街灯が点くのが見えた。

「ドルーズド、です。忘れたことなんて、ありません。それでも、」

 大きく息を吸い込む。

「あなたは、おかしい。」

 イズモは何も言わなかった。何か言うつもりもないのだろう。

「決勝戦で、またお会いできることを楽しみにしております。失礼します。」

 踵を返して右足を踏み出す。水溜まりの水が大きく跳ねたが、気に留めようとも思わなかった。一歩、二歩、と踏み出して、だんだん足が早くなる。気付けば駆け出していた。


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