88. 醜悪
冷えてきた指先を両手で交互に暖めながら、イズモの発言を反芻する。
私と、同じ、なのか。
彼が、この香りに求めているものは何なのだろう。
今にもまた雨が降り出しそうな曇天の空に視線を投げたまま、イズモの目はこちらを向くことがない。その手元の煙草は碌に咥えてもないのに短くなっていく。紫煙だけが漂って、懐かしい香りが辺りを包んでいた。
なんとなく、今は、この煙草の香りではなく、甘ったるい香水の香りを嗅ぎたかった。
冷え切って感覚も無くなった脚で、しっかりと地面を踏みしめる。リエラのことを思い出した途端に、靄がかっていた思考が少し晴れた気がした。そういえば、控え室での告発の記憶の中に、リエラはほとんど残っていない。彼女はあの場で何を思っただろう。彼女も私に失望しただろうか。
ふと、スサミの投げやりな言葉を思い出す。あの諦観の滲んだ瞳を記憶から呼び起こす。彼の忠告すらも私は聞くことができなかった。リュカとのバディの亀裂を指摘されて、あの夜に私たちはきちんと向き合ったはずだったのに。今日のことを聞いたとしたら、スサミも私への信用を失うだろうか。
「…スサミから、気負うなと、言われただろう。」
沈黙していたイズモが口を開く。携帯灰皿に煙草は押し付けられて、その小さな火を消されていた。
「…俺も、同じことを思っていたのだが…お前でも、そう上手くはいかないか。」
どことなく、私への呼びかけには含みがあるように感じられた。
イズモは、何を思って、この香りを嗅ぎたいと思ったのだろう。
彼がこの紫煙に求めるものは、何なのだろう。父であるトカラの存在そのものの面影か、それとも、トカラと走ったレースの記憶か。
もしそれが事実だったらと思うと、恐ろしかった。トカラを求めることは、今のバディであるスサミを蔑ろにする行為なのではあるまいか。命を預ける立場にある相手を疎かにしてまでも、父との思い出は追い求めたいものなのだろうか。壁に寄りかかったままの彼の目を見ても、真意は読み取れなかった。
イズモは、どうしてここで、私を待っていたのだろう。父の名を冠するグランプリに出場する、その血を引いた娘に温情だけで出場権を与えるなどという、いわばレーサーとしての生殺与奪の権を握って、何をしたいのだろう。
冷ややかな風が吹き抜けて、煙草の香りを霧散させていった。もう一雨来るかもしれなかった。左手に握った傘の柄を握りしめる。
「…リュカはどうした。」
こちらに視線を向けることもなく、独り言のようにイズモに問いかけられる。
「…………先に、帰る、と…」
答えたくなんてなかった。彼女の、私に対する計り知れないほどの絶望を、知られたくはなかった。私たちのバディとしての終わりのあの場面を、情けだけで出場を許可した彼に、言いたくはなかった。
「嘘だな。」
即座に否定される。思わず俯いてしまう。
「…その程度の言葉で欺けるとでも思ったのか。俺を。」
痛いくらいの叱責だった。それでも、私は、私たちバディの最後の尊厳として、彼に嘘をつきたかった。
「…リュカと何があった。それこそ、運営絡みか?」
俯いたまま瞬きを何度も繰り返す。言葉が見つからない。運営からの通達なんて、ただの引き金の、そのパーツのうちの一つにすぎない。その銃身に込められていた彼女にとっての弾丸は、私の嘘だ。
何も言わない私を眺めて、イズモは自ずから結論を導き出したようだった。
「ああ…お前が、リュカを見限ったのか。」
目を見開く。弾かれるように顔をあげて、否定を口にする。
「そんなわけっ…!」
彼の瞳は、どこまでも冷たかった。触れなくても分かるほどに、冷気を立たせながら周囲をも凍らせていく、絶対零度の瞳だった。続けようとした言葉は全て氷に変わって砕け散って、私の口に上ることはなかった。
「そうか。お前の認識は、その程度か。ヤクモ。」
吐き捨てるように告げられて、頭が真っ白になった。
私はずっと、最初からリュカを、バディである彼女を、信用していなかった。そうなのだと思っていた。そう思い込んできた。それでなければ、あの夜のあの衝突には、何の意味もない。前提から何もかも崩れるのならば、その上に積み上げられた辛うじてバランスの取れていた信頼なんて、元から存在しないも同然だ。
私が、彼女を、見限っただなんて。
「そんな、わけ…」
同じ台詞が口から零れ落ちた。そんなはずはない。そんなこと、あってはいけない。
思考が渦を巻く大海を、冷たい声が割って通って行く。
「リュカには期待していただろう?あいつを尊敬していただろう?それも最初のうちだけだっただろうがな。グランプリに出場してからのお前たちには、そんな様子は見られなかった。」
特に第三回戦からは酷かったな、とこちらに見向きもせずに告げられる。
思い当たるものがあった。
リエラの、介入だ。
リエラとリュカを思い浮かべて、なんとなく、リュカに対してばかり嫌なイメージが浮かんだ。男にばかり媚びて、レーサーでありながら女らしさを強調しすぎている、元・ノアのドライバー。
リエラは、そんなことはない。彼女が毎晩違う男と歩いているという話は聞いたことがない。甘い香水の香りを身に纏う彼女の服装は、レーサーとして最低限の華美を失っていない、機能的なものだった。
リュカは整備には来ないけれど、リエラは整備をするレーサーだ。価値観の違いはあれど、私は整備のできるレーサーの方が好ましいと思っていた。なぜなら情報共有がしやすいからだ。
そこでふと、思考が止まる。
回転し続ける思考が一拍、妙な間を空けた。
私は、リュカではなく、リエラを、望んでいる、のか?
それに気づいた瞬間に、吐き気を催すような自己嫌悪の気持ちに苛まれた。目の前がぐにゃりと曲がって、真っ直ぐ立っていられない。頭の片側ばかりが異様に重たくて、身体が勝手に傾いでいく。そのまま私は横ざまに地面に倒れた。碌に受け身すら取ることすらできなかった。叩きつけられた左腕が痛む。それでも、地面に無様に倒れ込んでも、私は身体を折って丸めて可能な限り小さくなることしかできなかった。涙も出てこない。嗚咽すらも上がらない。奥歯が割れてしまうほどの強く噛み締める。ただひたすらに、自分を呪い殺したいほどの憎悪だけが残っていた。
イズモは何の感情も籠っていない目で、醜態を晒す私を見下ろしていた。小さく何が呟いたのが聞こえた。
「…娘でも、この程度か。なあ、トカラ。お前ほどの天才は、もう現れないだろうな。」
カチ、カチ、とライターの音が聞こえた。冷たい風が、今度は大粒の雨を引き連れて吹き抜けていった。冷たい地面の上で徐々に身体の温度が奪われていく。そこに容赦なく、全てを水浸しにするような雨粒が降り注ぐ。初めは雨を弾いていたコートも、気付けば浸水してしまっていた。
屋根下で煙草を咥えるイズモの姿が、降りしきる雨の少し向こうに見えた。小さな赤い火だけが妙に私の視線を吸い寄せた。身体の芯まで雨で冷え切ると、頭も少し冷えたようだった。不格好な体勢のまま、思考に耽る。もう本当に風邪を引いたって構いやしない。どうにでもなればいいと思った。
きっと、イズモは、亡き父の姿を追っているのだ。
きっと、私に、父の面影を見ようとしていたのに、私が失敗したばかりに、彼はまた幻影に囚われたのだ。
そうに、違いないと、思いたかった。




