87. 紫煙
どれだけの間そうしていたのだろう。足の感覚はとうになくなっていた。後ろから話し声が少し聞こえてきて、正気に返る。そうだ、今は何より、帰宅しなければ。考えるのはそれからだ。ここから出なくてはいけないのだ。後ろからやってくるであろうあのレーサーたちに追いつかれないように、足早に歩を進めようとする途中で、何度も足が縺れた。つんのめりかけて、踏み込んだ右足の足首に嫌な痛みが走った。顔を顰めて、それでも歩き続ける。とにかく出口まで行かなければ。あのレーサーたちに追いつかれるわけにはいかない。奥歯を食いしばって一心不乱に足を動かし続ける。
外は曇天だった。持ってきた傘が邪魔になってしまった。いっそこれなら土砂降りであってくれたら、どれだけ救われただろうか。そんなことを思った。軽く空を眺めてから建物を離れようとすると、いつかに聞き覚えのある声が聞こえた。
「待っていたぞ。」
まさか。
音が鳴りそうなほど、ぎこちない動きで振り返る。
そこにいたのは、あれほど話したいと思っていた、イズモが立っていた。
イズモの表情は前に見たときと同じように、飄々としつつも落ち着きのあるものだった。彼の少し荒れた唇が開く。
「元気だったか?ヤクモ。」
彼に話しかけられて、笑顔を取り戻そうとしていた自分の表情が、全て抜け落ちるのが分かった。挨拶を返そうとして吸い込んだ息が、すべて零れ落ちるように吐き切られた。
「…何かあったのか。酷い顔だぞ。」
何か言おうとして中途半端に開きかけた口の中で、舌だけが無意味に動いた。何を、言えばいいのだろう。何と答えるのが、今の正解なのだろう。
言葉は、出てこなかった。
「…運営絡みか?」
黙したままの私を見て、イズモが問いかける。建物の中から、他のレーサーたちの話し声が聞こえてきて、彼に返事をする余裕はなかった。意識も視線も、すべて建物の方に向いてしまう。おざなりに頷いて、近づいてくる声の主にばかり注意を向けていると、深々と息を吐いた彼に咎められる。
「質問に答えろ、ヤクモ。」
頭がパンクしそうだった。どれから処理したらいいのかわからない。イズモにはなんて答えればいいのだろう。あの声の主たちから姿を隠すにはどうしたらいいのだろう。今、何からやればいいのだろう。楽し気な話し声は容赦なく大きくなってきていた。イズモから突き刺さる視線が痛いようだった。息が勝手に上がっていく。意識して、息を、吸わなければ。
「ヤクモ。」
イズモに呼びかけられると同時に、建物からあのレーサーたちが姿を表した。立ち竦む私を見て、彼らの足が止まる。私を見て下卑た笑みを浮かべた次の瞬間に、壁に寄り掛かるようにして私にだけ視線を投げかけ続けるイズモを視界に入れたのか、途端にその表情が引っ込む。媚び諂うように妙に姿勢を正して、耳がわんわんするような大きな声でイズモに挨拶をする。
「お疲れ様です!イズモさん!」
先頭にいた男が声を掛け、そのバディと思しき別の男が口を開く。
「今日はいらっしゃらないのかと思いました…!お会いできて光栄です!」
明るい彼らの声とは対照的に、何の感情も籠っていない視線をイズモは彼らに向けていた。短く告げる。
「…用がないなら早く帰れ。お前たちに構っている時間はない。」
寸の間、その声の圧に怯んだのか姿勢が崩れた彼らが、そそくさと別れの挨拶を次々に述べて構内から出て行こうとする。一番最後まで残った、あの最初に挨拶をしていた男が、私に近づいてきて厭味ったらしく囁いた。
「あばよ。せいぜい媚でも売っとけよ、詐欺師。」
すぐに身体を離して、わざとらしく、一文字ずつ区切るようにして名前を呼ばれる。
「ご武運を。じゃあな、ヤクモ。」
もう一度左肩を強く叩かれて、男は去って行った。肩の痛みはすぐには消えなかった。
彼らがいなくなった後も、わたしは身じろぎすることすらできずに、身体が固まってしまっていた。右手も、左肩も、足首も、すべてが嫌な鈍痛を訴えていた。指一本動かすのも困難だった。私は、イズモに見られている。現に彼の視線はずっと私に注がれていた。もし、何かここで失敗してしまったら。もし、彼の望むような正解とは異なる動きをしてしまったら。どうすればいいのかなんて、もう何も分かりはしなかった。神経を使って、普段通りの呼吸と瞬きを意識する。四秒吸って、一秒止めて、四秒で吐く。瞬きのペースは一定だ。三つ数えたら、瞼を動かす。ただそれだけの話だ。簡単なことだ。簡単なはずだ。そう思っても、呼吸は乱れてしまう。瞬きの回数が増える。いくつまで数えたのかも分からなくなる。目を開けているよりも、瞑っている時間の方が、長くなり始めていた。
彼と視線なんて合わせられやしなかった。ずっと下を向いて俯いたままだったけれど、私よりも背の高いイズモからすれば、私の顔なんていくらでも見えるだろう。彼は、何を思っているのだろうか。やはり、私には才がないと感じているのだろうか。他のレーサーたちと同じように。私は信用に値しないと思い直したのだろうか。リュカと、同じように。
そこまで思考が至った瞬間に、背筋が冷えた。単なる外気の寒さではない。寒さなんてとうに感じられなくなっていた。もし、私が彼にとっての正しい行動をできなかったら?もし、今ここで、イズモが、あの決定を覆す決断をしたら?
いつの間にか、呼吸は、覚えのあるものとなってしまっていた。吐き出せるのに、吸い込むことができない。喉が鳴る。違う。これは、こんなの。慣れているのだから、制御できるはずだ。できなければ。しなければならない。今は、イズモの前だ。今だけは、今だけでも。ああ、息が、吸えない。
カチリ、と音が聞こえた。鼻先をふわりと嗅ぎ馴染みのある香りが掠める。思わず視線を上げる。
イズモの手元には、見覚えのあるパッケージがあった。口に咥えた煙草の先に火がついて、細く煙を漂わせていた。
あの銘柄は、父が好んでいた銘柄だ。
目を伏せていたイズモがこちらを向いた。初めて真っ直ぐに、彼の視線を両目で受け止める。携帯灰皿に灰を落とした彼が、ゆっくりと口を開く。
「…スサミに聞いた。お前も、トカラと同じ銘柄を吸っている、とな。」
私にできるのは、瞬きを繰り返すことだけだった。
「安心するんだろう。香りだけは、いつまでも人の記憶に残るからな。」
そう言って、視線を遠くに投げる。スサミとは違う吸い方だった。味わおうとしている様子が見られなかった。私に似ている。まるで、香りだけを追い求めているような、そんな吸い方だ。
「…………俺もだ。」
懐かしいものを見るような、そんな目付きだった。




