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Drused Race  作者: 鈴生
始末
86/100

86. 虚空

 リュカが私の前から去った後も、私の足は動かなかった。今追わなければいけないのは分かっているのに、それでもまた拒絶されたらと思ったら恐ろしかった。彼女に伸ばしかけた右手だけが、空間に置き去りにされていた。未だに伸ばし切ることもできない指先を見て、きつく目を瞑る。項垂れて、肺から空気を全て吐き切らんばかりに息を吐く。目尻が少しだけ熱くなった。

 彼女の姿はもう見えなくなっていた。


 これは、誰のせいでもない。

 私が、いけなかった。

 自責の念ばかりが押し寄せる。どうして、私はたかが自分のプライド如きのために彼女に隠し通そうと思ったのだろう。あの様子ではきっと、彼女は()()()に起こったことを全て知っている。自分がどうしようもなく情けなかった。右手を下ろして、そのまましゃがみこむ。どうせ誰も来やしない。ここでこうしていても、誰も文句はつけるまい。膝の上に腕を組んで、そこに顔を埋める。瞬きをすると、目尻から冷たいものが零れた。歯を食いしばる。彼女のあの言葉が耳から離れない。

『見損なったよ、()()()。』

 彼女は、私を、もう二度と()()()()で呼ぶことは無いのだろう。失った信用は戻らない。頭ではわかっていたはずなのに、実際にそれを目の当たりにしたときのショックは計り知れなかった。

 わかっていた。わかっていたはずだった。彼女は、私ときちんと対等に向き合おうとしてくれたのに、私はそれを蔑ろにしてしまった。このままグランプリに出場することはできるのだろうか。次に試走なしで本番を迎えたときに、息の合った連携をすることはできるのだろうか。イヤホン無しというハンデを与えられた状態で、バディの関係がこんなに崩壊してしまったら、レースはおろかまともな運転すらできないのではあるまいか。

 ああ、違う。そんなレースのことなんて二の次のはずなのに。どうして、私は今、レースのことばかり考えてしまうのだろう。どうして、私にはレースしかないのだろう。どうして、私には、彼女のような生き方ができないのだろう。


 胸が苦しかった。息も苦しかった。しゃがんで縮こまっているからかもしれない。顔をゆっくりと上げて、緩慢な動きで立ち上がる。ロッカーに、荷物を取りに行かなければいけなかった。控え室(ロッカールーム)で、リュカに鉢合わせたいとは思わなかった。それでも、早くここから出なければならない。そうしないと、あの事務官の女性に追い出されることだろう。亀の歩みで控え室に向かう。誰とも話したくはなかった。

 控え室のドアノブを捻る。室内は先ほどとは打って変わって冷え切っていた。身震いをして、中に入る。そこには、何組かのレーサーたちが残っていた。全員の視線が突き刺さる。最も扉に近い椅子に座っていたレーサーに話しかけられる。

「よお、()()()。リュカは帰ったぜ。それで?出場権は剥奪か?詐欺師。」

 睨みつける気力すら湧かなかった。話しかけてきた男から視線を離して、真っ直ぐに自分のロッカーに向かっていく。その途中で、他の二人組の女から話しかけられる。

()()()、あんたって()()トカラ様の娘のくせして、主運転手(メイナー)の才能ないとか、普通に生まれてきた意味ないじゃん。ドルーズド(ここ)出てったら?」

 けらけらと笑いながら、もう一人がその言葉を拾って続ける。

「ああでも、()()()ってレース以外なんもないから出ていくこともできないよねえ、かっわいそ~!」

 もう、何をするのも嫌だった。瞬きも呼吸も、何もかもが他のレーサーにとっては私の反応に他ならない。できるだけ丁寧にロッカーを開けて荷物を取り出し、鞄を身につける。他の人間からの視線に惑わされてはいけない。私は今、目の前のことにだけ集中していればいい。コートを左手で掴む。

「なあ、なんか言ったらどうだ?()()()。ああ、それとも、セイカって言われないと反応もできないのか?」

 最初に話しかけてきた男に、馴れ馴れしく左肩を強かに叩かれる。予期していなかった痛みに手がびくついて、コートが床に落ちる。その様子をあの二人組の女が至極楽し気に笑う。膝を折ってコートを拾いあげて軽く叩き、大きな仕草で羽織る。振り返ってロッカーを閉めれば、男は真後ろに立ってこちらを見下ろしていた。

 言うなら、今しかない。毅然とした態度で対応しなければいけない。忘れたのか、私は、スズメバチだということを。

「出場権は剥奪されておりません。」

 男が興味深そうな表情を浮かべた。何か言う様子はない。

「イズモさんとスサミさんの温情により、剥奪は阻止されました。会長からの通達は以上です。失礼します。」

 会釈をして足早に控え室を出る。完全に扉が閉まり切る前に、中にいるレーサーたちが笑い転げる声が聞こえてきた。乱暴に扉を閉めようとしたが、重たい金属扉は思うように動かず、力を籠めて閉めても憎らしく細く開いた隙間から笑い声を伝えてきた。頭痛がしそうだった。


 すっかりその声が聞こえなくなると、耳の裏であの言葉が反響し始めた。

()()()。』

 リュカの声だ。

()()()。』

 違う、リュカは、こんな声ではない。

()()()。』

 これは、誰の声だ。

()()()。』

 もう、その名前で、私を呼ばないでくれ。

()()()。』

 私は、わたしは、わたし、は。

()()()。』

 私は、誰なんだろう。


 誰もいない、静まり返ったコンクリートの壁が剥き出しの、無機質な廊下で、私は立ち尽くしていた。


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