83. 静寂
レース会場に向かうその日は、雨だった。レースカーテンの隙間から外の様子を確認すると、予報よりも降っていた。軒先から滴り続ける水が止まらない。どうやら風も少し吹き付けているようだ。ダイニングから見える並木が横になびいていた。
浸水する可能性を考慮して、ローファーではなくハイカットブーツを選ぶ。それでも服装としては十分に正装足りうるだろう。上着さえ揃っていればいいのだ。メッセンジャーバッグの中身まで水が染みては困るので、ジャケットの内側にしまうことにした。普段使いをしているチェスターコートを羽織って、玄関に吊るしてある長傘を持って家を出る。想定していたよりも気温が低く、首元が縮こまる。コートの襟を立てて向かうことにした。
傘の横から吹く風が、コートの肩を濡らしていく。厚手のウールの表面をしっとりと湿らせて、時折傘からぽろりぽろりと零れる雨の雫が伝っていく。それに気付いて手で叩くと、指先が冷たくなった。慌てて軽く振ってからポケットに突っ込む。カイロでも持ってくるべきだったかもしれない。家が見えなくなるくらいまで歩いたところでそう思った。
グランプリ決勝戦会場までは徒歩でも片道40分程度だ。早足で歩けばかなりいい運動になる。コートの襟を折って、手をポケットから取り出して、いよいよ肌着が汗ばんできたように感じ始めた頃になって、ようやく会場に辿り着く。傘を畳んで振ってから、コートを脱いで右腕に掛ける。ジャケットの前を開けて軽く扇ぎながら無駄な装飾の一切無い建物に入る。つまるところいつものレースと同じような無機質な建築物だ。少し進んだだけで、見覚えのあるレーサーが不安げな顔をして立っているのが見えた。皆こちらに視線を寄越しながら、バディと思しき人物と小声で囁き合う。話すならばしっかりと声を張った方が相手にも聞き取りやすいだろうに。脇目も振らずに真っ直ぐに控え室に向かおうとして、嗅ぎ覚えのある香水が鼻を掠めた。思わず振り返る。そこには、よく似た男が二人並んで立っていた。レーシングスーツを見て、ようやく思い出す。彼らは、赤いノア600に乗っていたあの兄弟らしいバディだ。彼らはどこか挙動不審になりながら、こちらには視線を寄越さなかった。二人して辺りを見回しては話すのを繰り返している。聞きたいことはあったが、今は私は優先したい人がいる。あいつらは後だ。それにしても、棄権したはずのレーサーがいるのはおかしい。一瞬だけ眉を顰めたが、控え室のドアノブを捻ればすぐにそれも霧散した。
控え室にも、何組かのレーサーがいたが、やはりリュカは一番真ん中の椅子に腰かけていた。ジャケットを羽織っているが、そのミニスカートを履いた膝の上に、もこもことした柔らかそうな素材の上着が丸められて、彼女はそれに抱き付いている。足元もきっちりと揃えられ、身体は縮こまっていた。寒いのだろう。端末を弄っている様子はなかった。そのまま声を掛けようとすると、少しくぐもった声が聞こえてきた。
「なんでそんな暑そうにしてんの……」
上着を抱きしめる腕に力が入るのが見えた。面白くなってその指先を突つくと、びくりと跳ねる。
「ちょっとびっくりするじゃんなに!!??」
「面白そうだなと思って」
本当にそれだけの理由だ。手は適温だっただろう。冷たくも熱くもない。
「アンタ寒くないわけ……?」
「40分歩いてきたからね、だいぶ暑いくらい」
どうやら上着に顔を埋めたらしい彼女が、もごもごと何か言っている。聞き取れなかったので隣に座る。
「別のなんか使えばいいのに……わざわざ徒歩とか……」
傘を椅子に立てかけつつ、コートを雑に畳んで横に置き、ジャケットを脱いで鞄を外す。端末のみスラックスのポケットに押し込んで、他のものはロッカーにしまいに行く。ついでに傘も立てておこう。いくら治安の悪いドルーズドといえども、控え室で盗まれやしないだろう。リュカの言葉に返事をするつもりはなかった。
ブーツの踵を鳴らしながら彼女の隣に戻ってジャケットを羽織る。汗が冷え込んできて少し寒さを感じ始めていた。他のレーサーの視線なんて気にならなかった。気にする必要もない。
そういえば、今日はまだリエラの姿を見ていなかった。
彼女から拳二つ分ほど離れたところに腰掛けて問いかける。
「…で、イズモさんに直接聞け、と?」
鋭い視線だけが一瞬寄越されて、小さく頷かれる。言葉はない。どうしたらいいのか聞きたかったが、自力で解決しろと言われたようだった。
軽くため息を吐いて天井を眺める。やはり文通一択か。スサミに見られるかどうかが気掛かりだった。彼が介入したら、私がイズモから情報を引き出すことはできなくなるのではないだろうか。
しばらく沈黙の時間があった。リュカは縮こまったまま、一言も発しない。私もイズモからの情報を如何に引き出すか、リエラはどうしたのか、今日の招集の理由は、とつらつらと考えていた。どれもリュカに聞いても仕方のないことだ。一つの不安が浮かべば、それに付随するように別の不安が浮かび上がる。心の水面に浮かび上がる不安の泡を潰せば潰すほどに、水面は黒く濁っていくようだった。少しずつ体の芯まで冷えが回ってきて、一度身体をぶるりと震わせる。やはり、カイロは必要だったかもしれない。
突然、放送が入る。音質の悪い、ひび割れた声が聞こえる。
「全レーサーはレース場に集合せよ。繰り返す、全レーサーは…」
リュカと顔を見合わせる。彼女が瞬きをしたのが妙にスローモーションに見えた。色白な瞼に美しく彩られたアイメイクが煌めく。柔らかなベージュから赤みがかったオレンジを経て、目の縁には明るいブラウンが輝いていた。目尻には少し吊り上げ気味の、鋭角を描くアイラインが彼女の凛とした表情をいっそう際立たせていた。
彼女がゆっくりと立ち上がり、ジャケットの裾を伸ばす。コートをロッカーにしまいに行くのをぼんやりと眺めていると、私の前に戻ってきた彼女が告げる。
「行こ」
深く頷いて、彼女の隣に並ぶ。黒のブーツを履いた足に、艶のあるセンタープレスのスラックスが纏いつくのが分かった。彼女の履くエナメルのピンヒールの高い靴音と、軍靴のような重い音が打ちっぱなしのコンクリートの壁に反響する。外からは雨の時特有の香りが漂ってきていた。確か、ペトリコール、といっただろうか。いつものレース前のような感覚なのに、外からは熱狂も歓声も聞こえてこない。その代わりと言わんばかりに嗅覚ばかりが研ぎ澄まされた。左手を強く握りしめて、解く。今は、レースではない。単なる運営からの通告の日だ。そう身体に言い聞かせる。
レース場は、すぐそこだった。




