78. 治療
「なんの、つもりだ…」
辛うじて絞り出した声が、震えて掠れているのが分かった。視線はあちこちを彷徨うのに、座り込んでしまった身体は固まって動けない。固まっているのではないのかもしれない。力が入らないのだ。身じろぎすら叶わない。は、と短く吐き出した息を、そのあと吸い込むことができない。肩が強張る。力なく投げ出されて、床に触れている右手に変な力が入って、嫌な痛みをもたらしていた。肘が小さく震えて、それを左手で抑え込む。怯えを見せてはいけない。恐れてはならない。これは、恐怖ではない。武者震いだ。そう思い込んだ。気付けば、息が上がっていた。
笑みを崩さない彼女が、楽し気に、まるで讃美歌でもなぞって歌うかのように言葉を紡いでいく。私の、まるで真冬の雪国の暗闇の中にいるような恐怖と震えとは正反対だ。彼女は、さながら夏真っ盛りで燦々と降り注ぐ太陽のもとで、笑っているかのようだ。その対極性が、恐怖を加速させた。
「セイカさま、さきほど、仰っていたではありませんか…?今のセイカさまなら、わたくしに、ふさわしい、と…」
反射的に叫び返しかけて、押し留める。先ほどの言葉を、この女は覚えていたのか。口を開いて、閉じて、何というかを悩んでいるうちに、口で呼吸をしてしまっていた。肩が短く上下する。息苦しい。
「あのときの、セイカさまは…本当に、女神でしたわ…」
興奮しきった彼女の声は耳に届くのに、それに反応ができない。視野が狭くなりかけて、強く目を閉じてから開く。脳がぼんやりとして、息ができていないことを知る。息が吸いたいのに、吸えない。これだけ離れていれば香るわけもないのに、リエラがいつも付けている甘ったるい香水の香りを思い出した。頭の奥がくらくらとするようだった。
「あのセイカさまの、お顔…」
独り言のように、神への祝詞のように、彼女は謳いながらソファから起き上がる。私の上着とひざ掛けを丁寧に畳む。上品なストッキングを履いた足がしなやかに床につく。
「わたくしのようなものが、あのようなセイカさまを、見られるなんて…」
両手をソファの端に置いて、滑らかに立ち上がる。足元は一切ふらついていない。右足が先に出て、左足がそれに続く。身体の芯もしっかりとした歩き方だ。ミニテーブルに沿って、時計回りに彼女が歩き始める。
「なんて、幸福なんでしょうか…」
彼女は真反対にへたりこむ私のところに、大股でゆっくりと歩み寄って来た。彼女が近づいてくるほどに、あの香りが強くなる気がした。頭が重たくて真っ直ぐ座っていることすらできなくなりそうだった。身体の重心を失う。平衡感覚が消える。脳の奥が明暗を繰り返していて、焦点がうまく定まらない。どうしてもあの香りを吸い込みたくなくて、口元を抑える。そうすると息がうまくできなくて、天井を見上げることとなった。彼女の姿なんて、目に入っていなかった。彼女の声なんて、耳に入っていなかった。上を向いて、目を閉じる。閉じた瞼の縁から、冷たいものが伝っていく。右手は持ち上がらない。左手で必死に口元を覆う。
息が苦しい。視界が暗い。頭がおかしくなる。
ひやりとしたものが左手に触れた。いっそ強引なほどの力で口元を覆う手が引き剥がされる。甘ったるい香りがした。頬を撫でられる感覚があった。腰を掴まれる感覚があった。
息ができずに上を向いて目を閉じて喘ぎ続ける私は、リエラに、口付けられた。
「んっ、ぅぅ…」
彼女の身につける香水のような、底抜けに甘いだけの声が鼻を抜けて漏れた。鼻から息を吸いかけて、甘い香りがして、息が止まる。
彼女の舌が熱いのが分かった。舌先を擽られて、蛇のように絡みついて、吸い上げられる。歯列をゆっくりとなぞられて、刻みつけるかのように舌先を甘噛みされる。その動きは決して性急なものではなく、いっそ紳士的なほどだった。何もできずにいる私を、まるで宥めるように、あやすように、深く深く口付けられた。
「…っ、ぁ…」
頬を柔らかく撫でられる。思わず声が零れる。少しだけ唇を食んでから、彼女は離れて行った。これ以上なく癪なことに、私の過呼吸は収まっていた。自分の力だけではバランスが取れなくなって、私の頬を撫でる彼女の右手にしがみつく。それでも、彼女に身体を任せてはいけない。これを、同意だと思わせてはいけない。
ぼやける視界で、必死に彼女を睨みつける。脳の奥の点滅はかなりマシになっていた。意外なことに、彼女の視線は至って平静なものだった。もっと興奮に蕩けているかと思い込んでいたが、そんなことはなかった。
「セイカさま、どうかお休みくださいませ…大変、お疲れのご様子ですから…」
身体を支えられて、何とか立ち上がらせられる。自分の足に力が入らず、あわや転びそうになったが何の問題もなく彼女にそれを支えられる。
「寝室は、どちらですか…?」
心配そうな瞳で聞かれる。彼女に寝室に入られたくはなかった。これ以上のことをされるわけにはいかないのだ。心配そうな目は、演技に違いない。平気な顔をして自らに何かを盛る女だ。もう何も信用できない。
「…いい、っ、そこ、寝かせて…」
そういって小刻みに震える左手でソファを指さす。ひざ掛けも上着もある。室内には暖房も入っている。風邪をひくことはないだろう。不安そうな顔をして、リエラは私をソファまで連れて行った。
軟体動物のようにそこに倒れ込んで、目を閉じる。もう何もできそうになかった。
「…あ、あの…」
「…出てって…」
何かを言いかけたリエラを遮って、家から追い出す。もう限界だ。何も感じたくない。何も考えたくない。何も動きたくない。どこも動かしたくない。
「…承知、しました…」
静かに告げて、玄関のドアが閉まる音がした。鍵のかかる音は、しなかった。




