77. 真相
意識のない大の大人を連れて家まで戻るのはかなりの重労働だった。肌寒い季節になったというのに、肌着が少し汗ばんで湿っていた。玄関でなんとか靴を脱がせて、どこにこれを置こうか考えて、結局ダイニングにおいてほぼ物置と化しているソファに乗せておくことにした。着替え途中で家を出たので、洗濯籠にも入れられずに背面に引っ掛けたままのブラウスがみっともなくて、リエラを横たわらせてから回収する。雑誌の類もひじ掛けの上に積んであったが、それも回収した。頭でもぶつけられて崩壊したら下の階の住人からクレームが来る。
リエラはぐったりしていた。どうにも丁重に扱うことが不可能なので途中で身じろぎするかと思っていたが、それすらなかった。まずは水を飲んで欲しいのだが、この状態で飲めるだろうか。
ひじ掛けに頭を乗せて、ソファ全体に身体を横たわらせて、呼吸の様子を見る。特に違和感はない。念のため回復体位にしておいた方が安全だろうか。こんなところで窒息の事態だなんて私にはもう対応しきれない。身体を横向きにしてやって、寒くないように私の羽織っていた上着を掛けてやる。足元が寒そうだったので、最近クローゼットから出したひざ掛けも掛けてやった。
キッチンに戻り、ぬるめの白湯を作る。とは言ってもやかんにお湯を沸かして、ティーサーバーに移し替えて温度を冷ますだけだ。冷水を飲むのは流石に身体への負担が大きかろう。ましてや相手は一服盛られたのだ。どのような手段で盛られたのかは謎だが、まずは排出してもらわないことにはどうにもならない。
ティーサーバーとマグカップ2つを小さなお盆に乗せて、ミニテーブルに置く。ソファの空いている部分に腰かけて、リエラの肩を揺さぶる。声を掛けても、その反応は芳しくなかった。寝言なのか、それともうなされているのか私には判断がつかなかった。
反応がない間に、リエラに起こったことを推測することにした。どうにも服装を見る限りでは、身体的に何かされた様子は見られない。そして肝心の手だ。起き上がる様子もない彼女の両手を持ち上げてじっくりと検分する。手だけでは足りない。視線を手首から肘、二の腕、肩の方まで走らせて、出血がないことを確認する。打撲までは確認することはできないが、少なくとも先ほどもたれ掛からせたときに痛がる様子は見られなかった。重症ではないだろう。私と違って。その点はまずは安心できるだろう。
では、彼女はどこで一服盛られたのだろうか。一番考えられるのは、彼女とあの男が知り合いで何か飲食を共にしていた、という場面である。でもわざわざそこで、彼女が差し出された飲み物を何も考えずに口にするだろうか。そこまで警戒心のないレーサーだとは思っていなかったのだが。
するとそこで、小さく呻くような声がした。
「ん、んんぅ……」
「やっと起きた?リエラ」
少しだけ首を後ろにやって、彼女の顔を確認する。表情は先ほどよりも落ち着いている。多少は薬効が切れたのだろうか。それでも白湯を飲ませておくに越したことはない。
「起き上がれる?」
そう問いかけながら、ソファから立ち上がろうとして、想像だにしていなかったような強い力で腰を掴まれる。立ち上がることも動くこともできない。首が軋みそうな音を立てんばかりにゆっくりとぎこちなく、彼女の顔の方を見る。
「…セイカ、さまぁ…」
甘ったるくて頭痛がするような声が聞こえる。艶っぽさはなくなっていない。さながら事中の女のような甘美な声だった。彼女の薬効なんて切れていない。そう思いたかった。
「イイこと、しませんこと…?」
そう言って、私の着ていたパーカーの袖口から、手首に沿って彼女の左手が侵入してくる。逃げたくても逃げられない。腰を掴まれているのだ。
これが本性なのか、この女の。あの鬼神の整備士で、私の狂信者のリエラという女の本性は、本当にこれなのか。
リュカの忠告が耳の裏で蘇る。
『リエラに食われないでよ?』
ごめん、と内心で謝ることしかできなかった。リュカの忠告、聞いてたはずだったのに。もう罠に嵌ってしまった。もっと警戒するべきだった。もっと恐れるべきだった。私の失態だ。
もうこれ以上リエラのペースに流されてはいけない。腕を勢い良く振り払って、腰を掴かむ手を必死に引き剥がし、腹筋だけで引き倒されかけていた身体を引き上げる。足が縺れかかって、それでも前になんとか進む。ここで立ち止まってはいけない。彼女に触れられた瞬間から、脳内で警鐘がずっと鳴り続けていた。即座にソファから距離を取って、テーブルの反対側に回る。そのまま視線も合わせずにティーサーバーを乱暴に掴んで、マグカップにどばどばと注いでいく。テーブルの上に白湯が飛んだが、そんなもの気にしている余裕はない。彼女の一挙手一投足全てを注視していないと、私が何をされるか分かったものではなかった。マグカップをテーブルの上で滑らせてリエラの前に出す。
「飲んどけ、お前正気じゃねえ」
「…あぁ、こんな生殺しなんて…わたくし、口惜しくてなりませんわ…」
彼女がマグカップに手を伸ばす様子は一切ない。
「いいから飲め、お前一服盛られてんだろ?」
そこで、彼女と視線が合ってしまった。底なしの妖艶な目だ。何を考えているのかすら見当も推測もつかない。
なぜか彼女はくすくすと笑いだした。私の内心のざわめきが大きくなっていくのに対して、彼女のいっそ可憐な笑い声は、鈴の転がるような音で小さく続いた。笑い声が止まる頃には、彼女は菩薩のような笑みを浮かべていた。
短く切り揃えられつつも、丁寧にケアをしているのだろう。艶やかで健康的な桃色の爪を備えた、可憐で傷だらけの手が、どことなく優美に動いた。彼女が自分の顔を指さして、うっそりと笑う。
「…もし、わたくしが、これを、自分で、飲んだとしたら…?」
息が止まった。指一本すら動かせなかった。身体がすべてフリーズしてしまって、何もすることができない。どうしたらいいのかもわからない。ただひたすらに彼女を凝視することしかできなかった。その瞳に焦点は合わなかった。なんとなく、彼女を中心とした、自室を背景にした絵画を眺めているような気分になった。情報が、処理できなかった。
彼女は、何と言った?




