75. 恍惚
家に着いて寝る支度をしていると、カウンターの上に放り出したままにしてあった端末が震える音が聞こえた。部屋着にしている紺色のパーカーを羽織りながら確認しに行く。左手で取り上げると、画面に映っていたのはリエラの名前だった。何かあったのだろうか。まもなく寝ようと思っていたために警戒心が解けていたのか、何も考えずに端末をスワイプした。カウンターの上に置き、スピーカーにする。
「っはぁ、は、セイカさま…!!」
端末から聞こえてくる声が異常で、流石に他の作業を止める。まだ履き替えていなかったパンツのベルトに手を掛けたところで、動作は止まっていた。
「…リエラ?」
「ッぐぅ…!」
おかしい。何が起こっている。明らかな異常事態だ。それをその身体に受けてなお、頼ったのは私なのか。
「今どこ!?」
「…………」
突然沈黙が返って来た。焦りが募っていく。状況が読めない。どうなっているのだ。もう一度声を掛ける。
「リエラ、返事して、どこいるの!?」
「………いま、がれーじに、います、せいか、さま、の」
聞こえてくる声は随分抑えられた小声だった。あの様子だと、誰かに追われていて身を隠しているというところだろうか。私のガレージは徒歩圏内だ。何か武器になりうるものを持って急ぎ足で向かわなければ。
「リエラ、じっとしてて、すぐ行くから」
「なりません!……きゃぁッ!」
「リエラ!!??」
端末がとうとう応答しなくなった。舌打ちをして、半分部屋着のままでツールケースをこじ開けて一番近くにあったノギスを掴んで靴を引っ掛けて駆け出す。走っても10分はかかる距離だ。何事も無ければいい。ただひたすらにそれを祈りながら、息を荒げて走っていく。いつぶりだろうか、こんなに全力疾走をしなければならないのは。息が上がって来た。それでもまだ半分にも到達していない。電話を見ようと思ったが、それよりも走ることを優先することにした。到着したほうが解決が早い。
住宅街の大きな通りの角を二つほど曲がった先に、煌々と照明がついたガレージが見えた。私は触っていない。普段だったらこの正面のシャッターは閉めたままだ。いつも出入りするのは裏側の扉からだ。誰がいるのだろう。リエラはこうするのだろうか。
握りしめたままだったノギスを、左手に明確に持ち直す。手が白くなるまで握り込む。カマを掛けるために電話を掛ける。もちろんリエラに掛けるのだ。どこから聞こえるかが分かれば御の字だと思った。
そこで、真後ろから気配を感じて咄嗟にしゃがみこんで避けた。頭上を鈍い音が通過していった。攻撃してくるのはいいが、足元がガラ空きだ。そのまま膝に向けて蹴りを入れて一人が潰れたのを見て、堂々と正面から入ることにした。倒れたのは若い男のようだった。
端末の音は聞こえない。ガレージに入ると、真正面に私たちのカイン1200が大人しく待っていた。そのまま脇目も振らずにカインに近づいていく。まずは副運転手のコックピットを撫でて、次に主運転手のコックピットに触れる。できることならどちらも頬擦りしたいくらいだった。久々にきちんと色々な整理がついてから触れられるのだ。彼に触れたくてたまらなかった。
しゃがみこんでダブルスチールの検分をしていると、男らしき声が降って来た。影は私の姿をすっぽり覆ってしまうほどに長身だ。
「リエラを餌にしたが、お前はリエラに目もくれずにカインか。この化け物が。」
視線をダブルスチールから外すことなく答える。こんなやつに正面から向き合ってやる価値はない。相手が誰かも知らないが、私たちの邪魔をしないで欲しかった。
「しかも右手は使えない。失格か?女王蜂さんよ?」
機体。
左手にべったりとついた機械油を顔の前に持ってくる。その匂いがたまらなく私を興奮させた。エンジンの排気ガスもなかなかキマるが、エンジンオイルもまた、別種のキマリ方ができる。きっと私は今、恍惚とした表情を浮かべているのだろう。
今だ。
「リエラ、今の私なら、全部、受け止められるでしょ」
エンジン後方からくぐもった声が聞こえてきた。私の背後にいた男はいつの間にか移動していた。どこに行ったのだろうか。時と場合によってはノギスの出番なのだが。そう思いながらもしゃがみ込んで接続部を舐めるように見つめていると、いつもの甘い香りがした。しかし足音が幾分か多い。振り向けば、リエラの両隣を固めるかのように、若い男が二人いた。先ほど私の後ろにいた男を探すと、嫌らしく私の視覚である斜め後ろで存在感を消していた。
リエラは無事に回収した。カインは今のところ問題はなさそうだ。目下の問題はこの男たちだ。
「どなたですか?」
「さあな」
斜め後ろに控える男から答えられる。リエラの横の二人は何も話さず、彼女の腕を拘束していた。
「何もお答えいただけないのですか?目的くらい聞いてもいいのでは?」
そう問いかけつつも、なんとなく目的は推測できていた。私のガレージに現れるリエラ、それを使って私を呼び出すこと。それが最大の目的だろう。つまり、カインに手を出すつもりも予定もない。そう考えるのが筋だろう。少なくとも、彼らが狂気に駆られなければの話だが。




