71. 驕慢
席には、沈黙ばかりが落ちていた。誰も言葉を発さなかった。私も口を開かなかった。まだ言わなければいけないことはある。それでも、一度ここで話を整理したかった。これは、私の抱えてきた問題だ。これは、リュカに私を理解してもらうために必要な衝突だ。
マグカップに手を伸ばしかけて、飲み干していたのを思い出す。喉が渇いていた。口の中もからからだった。ずっと黙り込んだままのリュカと、何もする様子のないスサミに対して、言い様の無い感情を覚えた。彼女には何を、言われるだろうか。いつものような、感情任せの詰問が待っていればいいほうかもしれない。彼は、何を考えただろうか。この程度のことを黙っていたのかという呆れであればいいと思った。
リュカと向き合っているのも辛くなってきて、身体の向きを変えようとした。私の話の最後の言葉を聞いたあとから、彼女は俯いたままだった。視線は絡まない。何を考えているのかすら見て取ることはできなかった。いささか飲み物を口にしたい気分だった。冷たい水がいい。そう思った。
「セイカ」
彼女の、小さいけれど明瞭な声が聞こえた。店の喧騒の中でも、その声はなぜか聞き取れた。
前に直しかけた身体の向きを、彼女に戻す。先ほどよりも彼女の顔は上げられていた。それでもまだ、真正面からその表情を伺うことは叶わなかった。彼女の言葉を待って、ゆっくりと瞬きをする。彼女が息を吸い込んだ。
「…ウチのこと、本当になんにも信用してなかったんだね。」
それは、氷のような言葉だった。思わず俯きそうになる私に、彼女は容赦なく言葉を続ける。
「ウチはずっと、なんとなく、気付いてた…けど、セイカの口から聞くと、やっぱりしんどいね。」
あまりにも悲痛な声で、彼女は告げた。自分が正しいと思い込んでいた行為がどれだけ彼女を傷付けていたのだろう。はっとして顔を上げる。
彼女は泣いていなかった。鮮やかなグロスが塗られた艶やかな唇は、この場に不釣り合いなほど柔和な笑みを浮かべていた。それでも、瞳は雄弁だった。瞬きを繰り返す彼女の目は、少しだけ目尻が下がっていて、きちんと私を見つめていた。
言い訳がましく何かを言おうとして、口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。彼女の言う通りだ。私はバディであるリュカのことを、何も信用してこなかった。それ以外にどうやってこの状況を表せばいいのだろう。真っ直ぐな彼女の瞳から、目を逸らすことはできなかった。残酷にもその唇が開くのが見える。
「リエラのことだって、気付いてた。でも、それよりも、ウチには、レースの外でも生きていける、って思われてるの、分かってた。」
瞬きを一つする。彼女の表情が少しだけ変わる。口の端がほんの少し吊り上がる。まるで自嘲するかのようだ。
「だって、整備とか、全部、セイカに任せてきたし。それが重なって、だんだん信用、してくれなくなったんだなって。あのときにね、分かったの。」
彼女の膝の上で組まれていた両手が解かれて、右手で私の包帯に巻かれた手を指される。直接触られたわけでもないのに、ひやりとしたもので傷口を撫でられたような気分になり、咄嗟に肘を引く。座席の背面に、強かにぶつけた音がしたが痛みなんて気にならなかった。
リュカはそれを見ても怯む様子はなかった。
「救護室で、セイカが目覚めてから最初に聞かれたこと、忘れられない。」
次の言葉を口にするときだけ、彼女は目を伏せた。
「ああ、ほんとに、セイカには、レースしかないんだ、って。思ったの。ウチには、そこまで何もかも捧げられないって、思った。でも、それと同時に、ウチのこと、バディとして信じてもらえてないんだって、わかった。」
長い睫毛が、瞬きをするのが見えた。
「それでもね、セイカ。」
彼女の動作がスローモーションのように見えた。次の言葉が恐ろしくてたまらない気が下。何も怖いことはないはずなのに。
「ウチだって、レーサー、なんだよ。ドルーズドの、ね。」
彼女の発する一言一言が、私には抱えきれないほど重い言葉に聞こえた。再び絡まった視線が、私の両目を離すまいとして鋭く注がれていた。
息が、できなくなりそうだった。
後ろに隠すことすらできずに、結局座席の上に放り出されていた右手を両手で掴まれる。一瞬だけリエラにその手を握られたことを思い出しかけて、リュカの視線にその記憶を封じ込められる。
「ウチは、セイカの、バディで、主運転手。それだけは、忘れないで。」
手を掴まれたのは、私が逃げるのを防ぐためだろうか。
何度か息を吸って、吐いて、そうしている間にも彼女が手を離すことはなかった。視線は絡めとられたまま逸らせない。きっと、リュカは、私の言葉を待っている。私の理解を待っている。
言葉を探していて、気付いたことがあった。
私よりも、リュカの方が、ずっと、レーサーとしての覚悟を持っていたのではないか。
私は、スサミに諫められて、やっと自分の立場を思い出したのに。
彼女は、なんてことない顔をして、自分をドルーズドのレーサーだと断言したのだ。
傲慢だったのは、驕っていたのは、私だった。
「……ごめん。」
するりと右手から彼女の両手が離れていく。
彼女の表情が、先ほどよりも柔らかなものに変わる。そして眉が片方持ち上がって、どことなく挑発的な笑みが浮かんだ。




