69. 慧眼
残り数口になったアイスが器の中でゆっくりと溶けだす頃、早々にリュカは席に現れた。見れば随分息が上がっている。そこまで急いでやって来たのだろうか。誰もそんなにすぐに帰るわけはないのに。
深々と息を吐いて、彼女は私の隣に当然のように腰かけた。反射で座席の奥にずれ込む。
「…躊躇えよ」
「は?なんで?」
小さく苦言を呈すと即座に切り捨てられた。視線を右斜め上にやって、一瞬だけ考える。スサミの隣に堂々と座るわけにはいかない。消去法で私の方にやってくるのは自明の理だ。視線を彼女に戻して、別のことを質問しようとして口を開きかけたところで、リュカから指示をされる。
「端末取って。」
「え、ああ…うん」
左手で持ち上げると、想像していたよりも重たかった。ほんの少し手元がおぼつかなくなったところで、スサミに支えられる。彼は几帳面なことに両手で端末を持っていた。
片手で渡すよりも、彼に任せた方が落とすことなくリュカに渡せそうだと判断して、手を離す。端末はスサミの手からリュカに渡った。
「あ、ありがとうございます…アンタ何してんの?」
スサミに礼を述べたあと、ぐるりと首をこちらに向けて問いかける。私もやりたくてやっているわけではない。
「思ってたより重かった」
「なっさけな…」
呆れ返った口調で言い放たれる。いい加減言い返してやりたくなった。
「好きでこんなのやってんじゃない。リュカこそ、なんでこんな早くに?」
下から見上げるようにして顎を引いて彼女の出方を見つめる。どことなく蔑んだような、それでいて憐れむような両目と視線がかち合って、すぐさま離される。
「自業自得でしょそれも…近場だったから来ただけ。アンタほんとにソフドリしか飲んでない?」
テーブルの上で、冷めきってしまった紅茶に視線を注いでいる彼女に問いかけられる。紅茶は私の近くにあった。寸の間だけ彼女の眉間に皺が寄って、すぐにその額はまっさらになった。
彼女の手は端末の上を滑るように動いて、レモンサワーを注文していた。つまみはフライドポテトにしたらしい。彼女の食の好みを、私は今日、初めて知った。
それにしても、彼女はディナーを終えたあとではないのか。それでいてまだ飲む気なのだろうか。
「まだ飲むの?」
わざとらしく溜め息を吐かれて、つっけんどんに返される。
「どうしようがウチの勝手でしょ。ディナーなんか1時間は前に終わってんだから、こんくらい飲めるに決まってんじゃん」
私たちの些細な口論の様子を、スサミはずっと黙って眺めていた。皿に上品に盛られたわらび餅が減っていく。均等にまぶされた黄粉をテーブルの上に一切零すことなく、右手で一つずつ楊枝に餅を刺して左手を受け皿にして食べ進める。本当に器用な人だ。
レモンサワーとポテトが届くまでの間、私はリュカからの詰問に答える羽目になった。過不足なく、端的にここまでのことを説明し終えた頃に、ちょうどよく店員がやってきた。ジョッキを傾ける彼女と同じタイミングで、一息ついて紅茶を飲む。マグカップの中身は残り少なくなっていた。
「…で?アンタはまだリエラを信用してるわけ?」
一気に三分の一ほど飲み干して息をついた彼女が口を開く。その点に関しては、まだなんとも答えにくかった。私としては、あの整備技術は信頼しているが、何せあの異常事態をその口から聞いたと思うと、全てを信じきることはできなかった。
「…信用は、正直してない。整備士の腕以外の、いろんな意味で。でも…」
そこで言葉を切る。ずっと黙したままのスサミに視線を向ける。
なぜかスサミはリエラを庇っている。いや、庇っているのではないのかもしれない。あのとき、彼は明らかに彼女はクロではないと断言していた。未だに半分ほど中身の残るジョッキを呷っていた彼が、私の視線に気付いてジョッキをテーブルに戻す。
「…どうして俺を見る。」
「ウチ、アンタに聞いてんだけど。なんでスサミさんの方見るわけ?」
二者二様に言葉を投げられる。そうか、リュカにはまだ、スサミとリエラの信用の件については話していないのだった。レースに直接関係していないと判断して切り捨てた話題だった。
「スサミさんが、リエラが黒幕じゃないって断言したんだよ…だから悩んでんの」
リュカが非常に複雑な表情を浮かべる。驚きと、困惑と、苛立ちと、懐疑だろうか。彼女の目まぐるしく変化する表情から読み取れた感情はそのくらいだった。彼女が注文したものだったが、まだ温かそうで美味しそうに見えたのでポテトに手を伸ばす。途中で叩き落とされるかと思ったが、何もされずに無事に口に運ぶことができた。
リュカの顔を見ると、スサミを穴が開くほど見つめていた。スサミはスサミで自由に行動しており、わらび餅の最後の一個を満足そうに味わっていた。ゆっくりと咀嚼したあと、少しだけハイボールを口にして、やっと彼は私たちの抱える質問に答える気になったようだった。
口元を拭った彼が、口を開く。
「…お前たち、よくそれでバディが務まるな。」
彼の声は、リュカの発していた声とは比較にならないほど鋭利で冷たかった。すこし緩んでいた空気に、鞭を打つような声だった。
二人して同時に即座に居住まいを正して、真っ直ぐに彼を見る。背筋を伸ばし、少しだけ肩を引く。次に続けられる言葉が恐ろしかった。
「互いに疑心暗鬼のまま衝突して、挙句には問題の解決に他者を頼る。グランプリに出場しているトップレーサーのバディだとは信じられんな。」
彼の言葉はどこまでも正鵠を射ており、何の反論もできなかった。ここで謝罪をしても、一銭の価値もない。求められているのは、私たちバディの関係性の改善と、自力で問題を解決しようとする姿勢だ。
普段と同じ、左側に座る彼女の顔を見る。彼女も私を見つめていた。何か言おうかと思ったが、彼女の口元が小さく動いたのが見えたので、黙っておくことにした。
「セイカ、」
彼女も、何を言うべきか悩んでいるようだった。視線が少しだけ下を向いて、彷徨う。言いたいことは、なんとなく想像がついていた。それでも、言葉にするのは難しいものだ。私も、同じように切り出し方に悩んでいた。
リエラのあの執着を、あのカインへの整備を、私との一晩の約束を、私はどうやって、バディであるリュカに説明すればいいのだろう。リエラからの執着は随分長いこと続いている。ガレージでされたことも、私はずっとリュカに黙っていた。言う必要もなかったと思い続けていた。
これは、私だけの問題だと思っていた。私だけが抱えていればいいと思っていた。何か起こったとしても、私だけで何とかすればいいと思っていた。リュカにはレース以外の生活がある。私にはレース以外に何もない。それならば、私が何もかも引っ被っているのが、平等だと思い込んでいたのだ。
スサミは、その関係の歪さをたったあれだけの会話から見抜いたのだろう。心当たりがあったからこそ、あの言葉は心に深々と刺さっていた。




