68. 応答
彼が頭を抱えているのを眺めていると、ポケットに入れてあった端末が振動したのを感じた。短い振動だ。未だに顔を上げないスサミを確認して、端末を片手で取り出して開く。通知が一件だけ入っていた。
『もっかいそっちから掛けて来て』
目の前のスサミの様子を伺う。彼は幾分か立ち直ってきたようだった。ジョッキを呷っていた彼が、こちらの視線に気付いたのか首を傾げる。
「どうした。」
「いえ…」
少し言い淀んでから、良いことを思いつく。
「…電話しても、よろしいですか。」
眉間にうっすら皺を寄せたスサミが、渋々と言わんばかりに了承してくれた。
「別に構わんが…ここでか?」
軽く頷いて、彼に見えないように膝の上に端末を置いて操作する。左手で持ち上げて、耳に当てる。
たったワンコールで、彼女は電話に出た。
『何があったの!!!???』
耳の奥がキィンとして、顔を顰めて咄嗟に耳から端末を離す。その様子を見ていたスサミが、一人でどこか得心のいったような表情を浮かべた。
「…ある意味緊急、運営からの通達聞いてる?」
こちらの問いかけに対して、リュカからの答えにはやや間が空いた。店内の喧騒に耳を傾けながら、紅茶を口にゆっくりと含んで味わう。紅茶はとっくに冷めてしまっていて、渋さばかりが舌の上に残った。彼女の答えを待つ間に、いつの間にか息を潜めていた。
彼女の搾り出すような声が聞こえた。
『…聞いてない。』
詰めていた息を吐き出す。
視線を上げると、穏やかな顔をしたスサミと目が合った。軽く首を振ると、深く頷かれる。
「そう、ならよかった…」
『…何がよかったの?』
リュカの尖った声が聞こえた。
「ちょっと、ね」
一言で説明するにはあまりにも複雑で、それでいて何も解決していなかったので、その場凌ぎで言葉を濁した。それが悪手だった。
「ちょっとで済むようなこと?あんだけ不在着信残しといて!?普段碌に連絡すら寄越さないアンタが!!??ちょっとなわけないでしょ!!??」
彼女の声が、針の先のように鋭く甲高くなっていく。声は張られていないはずなのに、電話口から耳を離したくなった。可能ならば通話を切ってしまいたかった。
ほんの僅かな苛立ちが、彼女の声によって増幅されていく。あれだけ掛けたのに一度として出なかったリュカに、彼氏とのディナーだと言って整備を投げ出した彼女に、これだけ詰られる筋合いはない。
それなのに、彼女の言葉は募っていく。
「アンタ、今どこいんの?アンタの後ろなんかうるさいんだけど!自棄酒でもしてんの!!??」
苛立ちで膨らんだ風船を、針で突かれたような気分になった。
「うるせえな、スサミさんと飲んでる。そんだけ。じゃあな。」
通話を切ろうとして、テーブルの上に端末をおいたところで、画面を操作する手を遮られる。
右手を突き出していたのは、スサミだった。ジェスチャーで端末を寄越すように言われたので、黙って差し出す。
リュカからの返事なんて、聞いていなかった。
「スピーカーにするぞ。いいか?」
黙って端末を奪っていった割には、律儀なことにスサミはそんなことを確認してきた。どちらかというと確認を取るべきは、電話口の向こうにいるリュカではないだろうか。考えるのも億劫だったので、投げやりに頷く。
彼の右手が端末を操作した瞬間に、耳を劈くような怒りを携えた声が聞こえてきた。
『…バッカじゃないの!!???』
「確かにこれは喧しいな…」
視線をやや斜め上に投げながら、彼が呟いた。リュカの耳にはこれが彼の第一声として聞こえたのだろうか。少しだけ同情したい気分になった。私ならきっと耐えられない。
『なん……えっ……、ス、サミ、さん……?』
彼女が明らかに動揺した声を上げた。それもそうだろう。こんな事態、誰が予想できようか。
「久しぶりだな。リュカ。元気か?」
『…ええっと…はい、元気、です…』
先ほどまでの勢いはどこへやら、彼女の声は急に萎んでいった。そこで急に思い出したかのように、スサミが問いかける。
「今スピーカーなんだが構わんか?」
年長のレーサーに聞かれて否と言える若手レーサーがいるのだろうか。少なくともスサミから聞いた様子では、私のような人間でもない限り断れまい。
『え、嫌なんですけど…他の人に聞かれたらどうするんですか』
私はリュカと同類だったのだろうか。頭痛がしてきた気がしたので、気休めのためにアイスでも頼むことにした。なぜか楽しそうなスサミをよそに、テーブルの上の端末を操作してバニラアイスをタップする。注文ボタンを押そうとすると、ぬっと手が伸びてきてさらりとわらび餅が追加される。
手の主を凝視しても、視線は合わなかった。
彼らの会話に耳を傾けることもなく、しばしぼんやりとしていると、私の端末を突き返された。話は終わったのだろうか。真面目くさった雰囲気を醸し出しつつも、笑みが隠しきれていない表情で、スサミが一言告げた。
「これから来るそうだ。」
スサミの言葉を頭の中で反芻する。これから、来る。誰のことだ。リュカに決まっている。どこに来るのだろう。ここ以外にあり得ない。言葉が出てくるまでに少しだけ時間がかかった。
「…はあ???」
「その言い方はないだろう。」
この反応だけは、咎められたくはなかった。




