67. 執着
一旦空気を切り替えるために、お手洗いに立つことにした。スサミに一言断り、リュックからタオルハンカチを取り出して席を立つ。
洗面所で手を洗っているときに、鏡で自分の瞳を見つめる。鏡の中から、どことなく疲れた女の目が見つめ返してきた。じっと見つめても、そのくたびれた目は変わらない。父が抱えていたような焦燥も、崇拝も、葛藤も、狂気も、何もかも、見つけられなかった。
イズモは、何をもって、私の目が父と同じだと断じたのだろう。
スサミは、何をもって、私はヤクモでしかないと断じたのだろう。
頭を振って、お手洗いを出る。席に戻るときに、どことなく見覚えのある男性とすれ違った気がした。向こうも気が付く様子がなかったので、私の気のせいかもしれなかった。
席に戻ると、スサミは新しいジョッキを頼んでいた。手元にはふろふき大根があった。何か頼むかと聞かれたので、暗い雰囲気を忘れるためにチーズフライを再び注文することにした。足元がほんのり冷え込んできていたので、ホットの紅茶も頼む。飲み物だけ見れば、私はまるで居酒屋ではないところに来たみたいだった。
彼が器用に箸で大根を八つに切って、みそだれを付けて口に運ぶ。その様子をつぶさに見ていて気が付いた。彼は一口が小さいのだ。だから、一度に大量にものを口にしないのだ。そして恐らく猫舌でもある。熱いものに対する動作が慎重なのが、それを物語っている。何と声を掛けるか悩んで、一番誉め言葉に該当しそうなものを選んだ。
「…上品、ですね。」
「…俺が、か?」
あまりにも怪訝な視線を向けてくるので、適当に首肯しておいた。他に誰がいるというのか。
スサミの視線があちこちに向いて、最終的に手元の皿に落ちる。ほぼ完璧に八等分された大根を見て、溜め息をつく。
「慣れだ、こんなもん。」
それを指したつもりはなかったのだが、本人が納得したいようにすればいいと思って黙っておいた。
温かい紅茶と、チーズフライが同時に運ばれてきた。チーズフライは先ほど痛い目を見たので、紅茶を冷ましながら飲むことにした。息を吹きかけて、少しだけ啜って後悔する。熱かった。
二人で黙々と食事をしている間にも、周りの喧騒が落ち着くことはなかった。客が入れ替わり立ち代わりやってくる。店員はずっと忙しそうに立ち働いている。その様子を、何ともなしに観察していた。
先に大根を食べ終えたらしいスサミが、簡易的に作った箸置きに音も立てずに箸を置いた。こちらに視線が向けられる。
「話は、まだ終わってないぞ。」
横に向けていた顔を、正面に向ける。視線を、真っ直ぐ受け止める。
「…分かってます。そのあとのこと、聞かせてください。」
肩から力が抜いて、スサミはかったるそうに話し始めた。それがどこか投げやりな態度に感じられるのは、決して気のせいではないだろう。
「イズモの、トカラに対する執着と、トカラのイズモに対する心酔が、一番の形で現れたレースがあった。お前も、聞いたことがあるだろう。当時の王者として君臨していた歴戦のバディを出し抜いたレースだ。」
記憶の棚をひっくり返す。父が副運転手としてレースに出場した記録はあまり見てこなかった。スサミがこれだけ言うのだから、きっと相当有名なはずだ。数秒考えたが、どうにもそれに合致する記憶は無かった。しかしこんなことで話を止めるのも野暮だろう。知ったふりをして、頷いておく。彼にはお見通しかもしれないが、無知であることを明言して話を中断させたくはなかった。
「…そのレースで、あいつらは優勝した。イズモは、負傷したがな。レース中の妨害に不注意で巻き込まれたそうだ。入院するほどではなかったが、救護室行きになったうえ、自宅での絶対安静が言い渡された。」
ようやく冷めてきた紅茶を口に含む。渋さが口の中に広がった。
「…父にとっては、後悔…いえ、自己嫌悪しかなかったんじゃありませんか。そんな事態。」
スサミの目が、見えないほどに細められた。
「お前は、どこまで行ってもあいつの娘だな。…その通りだ。その妨害は、トカラから提案したものだったのもあってな。」
彼が、なんてことのないように続ける。
「思いついたのは、ガス爆発でな。イズモは軽い火傷を負ったんだ。」
言葉が、出てこなかった。まるで、私と、あのときのレースと、同じじゃないか。
こちらを向いて、スサミが口を開く。そこから紡がれる言葉を、聞きたいとは思わなかったが、耳はそれを拾ってしまった。
「あのときは驚いた。まさか、ヤ………セイカがやるとは、思っていなかった。」
そこで、口の端をにんまりと吊り上げる。悪人面は彼には似合わないことを、初めて知った。
「イズモとトカラのバディほど、上手くはいかなかったようだが。」
「随分なこと言ってくれますね。」
目を瞑って深呼吸をして、苦い思い出を吐き出そうとする。先ほどまであんなに投げやりな態度だったのに、どうしてスサミはこんなに今、楽しそうに話しているのだろう。
ああ、そうか。どれだけ苦い思い出であっても、彼にとって、イズモとトカラは大切な友人だったのだ。その彼らの成し遂げた偉業が、私たちが追いつけなかった伝説が、誇らしくて、きっと何にも代えがたい思い出なのだろう。
チーズフライを掴む。いい具合に冷めていた。一つずつ味わって食べていく。先ほどは空腹でがっついていたため、あまりきちんと味わえなかった。今回はついて来たソースで味を変えてもいいかもしれない。
「それで、イズモさんが自宅安静になって、父はどうしたんです?まさかレース休んだとか?」
スサミの少しだけ楽し気だった表情が、一瞬で霧散した。顔から感情が抜け落ちる。
「…そうしてくれたら、まだよかっただろうな……トカラは、主運転手として、レースに出続けた。イズモの代わりと言わんばかりに、日程も何もかも詰め込んで、な。だからだろうな。俺が、お前が生まれたのを知ったのは、随分あとのことだった。」
今度はこちらが目を細める番だった。いよいよ、私の知っている父のところまで、彼の語りがやってきた。
視線を少しだけ彷徨わせて、彼は私から視線を離そうとしていた。何か、私に言いにくいことがあるのだろうか。彼の左腕に嵌められた武骨な腕時計に、視線が落ちて、またテーブルの上に戻る。ゆっくりと、少しだけ荒れた彼の唇が開くのが見えた。
「俺は、トカラとイズモを、あのとき初めて恐ろしいと思った。」
「…ヤクモ。これは、トカラが付けた名前じゃない。イズモが、自分の娘に付けるはずだった名前だ。」
顔から血の気が引いた。心酔だなんて可愛い言葉で表していい行動ではない。こんなもの、執着だ。信仰だ。崇拝だ。
それにしても、スサミは、イズモも恐ろしいと言ったのはなぜだろう。
そこで、嫌な予感がした。
テーブルの横を人が通っていく。男物の香水の香りが鼻についた。
「…リュカも、ですか…?」
何とか絞り出した声が震えているのがわかった。
「リュカも、父が、私に、付けるはずだった、名前なんですか…?それを、イズモさんが、自分の娘に、付けたんですか…?」
スサミの目が見開かれた。顔に表情が戻った。驚きと、絶望の色に染まっていくのが見て取れた。掠れるような声が聞こえる。
「…知って、いた、のか…?」
彼の反応を見て、私は少しだけ冷静になった。自分よりも動転している人を見ると、人間は相対的に自分の方が平静になれるらしい。知らなくてもいいことを知った気がした。
淡々と、自分の知っている事実を述べていく。
「リュカから、聞きました。リュカの父は、イズモさんだと。」
スサミがとうとう頭を抱えた。肘の先がジョッキに当たって、少しだけ位置がずれた。中身が波立つ。
「…お前、それを知ったうえで、何もかも抱えたうえで、お前の父親の名前を冠した、お前の父親に執着を見せる男が絶対王者として君臨する、グランプリに出場していたのか…?」
それは、私への問いかけには思えなかった。彼が、自分の中で状況を整理するために告げられただけの言葉だ。そうとしか、思えなかった。そうとしか、思いたくなかった。




