【43】とどのつまりは心
【43】
2018.05.29
同じ行いでも、心がけ次第で、その質に雲泥の差が生じることがあります。ここに、何か全てが隠されているのではないかと、今朝、僕は強く閃きました。
行いや質は、心掛けに、帰結するものであると。
たとえば、形だけの感謝と、真心からの感謝は、「他」に与える影響や印象が全く異なります。前者は、形だけの交流が生じ、後者には、血の通った交流が生じますし、周囲にも良い感化が訪れます。行いは、「カルマ」ともいいますが、カルマが溶けていったり、成就したりしていく、また、再びカルマを作るのも、この心掛けによって、良くも悪くも変わっていくと、僕は思います。良いカルマは、善業で悪いカルマは、悪業といいます。また、善因楽果、悪因苦果という捉え方もあります。善いことをしましたら、必ず、楽しい結果が必ず訪れること、逆にいえば、今苦しんでいることがあるとすれば、それは、過去(前世も含めて)に自分自身が困った種を撒いてしまったからです。そういう意味では、自因自果ということで、結局は、人生は、自分次第なところがあると、僕は、思います。
また、何を持って善いかとすると、そこに愛があり、命を大切にし、育むものが、あるかどうかです。何を持って悪いとするかは、そこに愛がなく、命を損ね、命を傷つけ、育まないことが悪だと、思います。
それと、行いを、業の世界を超えた行いにすることも出来ます。神様と一体となり、神様との共同創造で行うことを「超作」や「三密加持」といいます。何事も、善き心掛けと、善き行いを徹底していくなかで、この超作や三密加持に到達します。このように、何事も良心やハイアーセルフ、魂の声を主軸としていくことがブッダの道であり、キリストの道でもあり、本来の自分自身への道でもあります。
自身のなかにある良心や仏の種、仏種、キリスト意識、幼子の心を育んでいくこと。また、よく内観し、この声や衝動は、肉体影響から出てる声なのか、心の影響から出てる声なのか、魂の影響から出てる声なのか、よくよく認識すること。これらの内的働きかけによって、一緒くたになり、混沌としているものに秩序が与えられ、整理がされていき、心持ちも、スッキリと晴々していきます。内観をし、自分自身の内側から整えていくことが、本来の断捨離でしょうね。先ず、心の断捨離または、昇華したり、アストラルの精神の火を、カラーナやプルシャ、根源の天の世界に燃やさせて頂くこと。
書いているうちに、気付きましたが、日記のようでいて、伝導活動のようでもありますし、遺書のようでもありますが、どうやら、どれも含まれているようです。たとえば、聖書がヘブライ人のジャーナルや日記であったのと、同様です。ただ、この取り組みは、僕としては、出来事や心模様などを書き残しておく意味合いが強いです。後で、振り返ることが出来るように。
また、行いが正されていくときは、心掛けや意識が良くなっていること。行いが変わらない場合は、まだ、心掛けや意識があまり変化していないことは、心に留むべきことだと、僕は思います。
とどのつまり、行いや生活習慣を変えるのであれば、先ずは、心掛けや意識を変えること。先ずは、落ち着いて、静まり、心に注目し、エネルギーをフォーカスする時間を作ること。時には、内観、観想、瞑想をよくよくし、その時に、紙とペンも、用意しておくこと。




