第4話 私を守る男、私を失った男
帝宮を出た馬車の中で、ノアは私の手をぎゅっと握っていた。
「お母様」
「どうしたの、ノア?」
「……あの人、怖い顔をしていたね」
金色の瞳が、心配そうに私を見上げる。
私は小さく微笑み、彼の黒い髪を撫でた。
「そうね。でも、もう大丈夫よ」
「本当に?」
「ええ。お母様は、ノアがそばにいてくれるだけで強くなれるもの」
そう答えると、ノアは少しだけ安心したように笑った。
けれど、その小さな手は、私の指を離そうとしなかった。
無理もない。
今日、彼は初めて父親である男と顔を合わせたのだ。
もちろん、ノアはまだ何も知らない。
目の前にいた皇帝が、自分の本当の父親だということも。
そして、かつて私が心から愛した人だということも。
「……お母様。ルシアン様に会いたい」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「そうね。お母様も会いたいわ」
ルシアン。
エヴァレット大公国の大公であり、私とノアの命を救ってくれた人。
彼は私たちに、帰る場所を与えてくれた。
三年前、すべてを失った私に。
父を反逆者として処刑され、婚約者に見捨てられ、帝国に居場所をなくした私に。
あの人は、何も尋ねずに手を差し伸べてくれた。
***
三年前。
帝国を逃れた私は、国境付近で意識を失った。
お腹には、まだ小さな命が宿っていた。
寒さと疲労、そして絶望に耐えきれず、私は倒れたのだ。
目を覚ましたとき、見知らぬ天井が目に入った。
「……ここは?」
「エヴァレット大公国の領内だ。君は国境付近で倒れていた」
落ち着いた声が聞こえた。
視線を向けると、銀色がかった髪の男性が椅子に腰掛けていた。
彼がルシアン・エヴァレット大公だった。
「医師の話では、君は妊娠しているそうだ」
その言葉を聞いた瞬間、私はお腹に手を当てた。
生きている。
この子は、まだ生きている。
涙が止まらなかった。
「お願い……この子だけは、助けてください……!」
私は彼の前で頭を下げた。
もう何もいらなかった。
名誉も、地位も、愛も。
ただ、この子だけは守りたかった。
けれど、ルシアンは私を責めることも、事情を問い詰めることもしなかった。
「頭を上げてくれ」
彼は静かに言った。
「君と子どもの安全は、私が保証する」
「……どうして?」
「理由がなければ、誰かを助けてはいけないのか?」
私は何も答えられなかった。
彼は少しだけ目を細めた。
「君が何を経験したのか、今すぐ話す必要はない。ここで新しい人生を始めてもいい。望むなら、過去の真実を探す手助けもする」
そして、彼ははっきりと言った。
「選ぶのは君だ。私は、君の人生を奪うつもりはない」
その言葉が、どれほど私を救ったのか。
きっと彼にはわからないだろう。
私はその日、初めて泣きながら眠ることができた。
それから数か月後、私はノアを産んだ。
誰にも祝福されず、愛する人のいない出産だった。
それでも、腕の中で小さな命が泣いた瞬間、私は決めた。
この子だけは、絶対に幸せにする。
父のように、権力争いの犠牲にはさせない。
私のように、誰かの判断ひとつで人生を奪われることもない。
そのためなら、私は何度でも立ち上がる。
たとえ、かつて愛した男と対峙することになっても。
***
大使館に戻ると、部屋の机の上に一通の手紙が置かれていた。
差出人は、ルシアンだった。
私は封を切り、丁寧に綴られた文字を追った。
『セレスティア。
帝国での滞在が君にとってどれほど苦しいものになるか、私には想像することしかできない。
それでも君が自分の意思で戻ったのなら、私はその決断を尊重する。
君が望むことを成し遂げてほしい。
ただし、帰る場所があることだけは忘れないでくれ。
ノアにも、帰ったら一緒に庭園へ行こうと伝えてほしい。
君たちの帰りを待っている。
ルシアン』
読み終えた瞬間、私はそっと目を閉じた。
帰る場所。
その言葉が、胸に深く染み込んでいく。
かつての私は、アレクシスの隣こそが帰る場所だと信じていた。
彼と結婚し、帝国を支え、父とともに穏やかな未来を築く。
そんな未来を疑いもしなかった。
けれど、その未来は彼自身の手で壊された。
今の私には、もう違う帰る場所がある。
私の意思を尊重し、何も要求せず、それでも帰りを待ってくれる人がいる。
「……ルシアン様に、お返事を書こうね」
「うん!」
ノアは嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見て、私は改めて心に誓った。
誰にも、この子の未来を奪わせない。
たとえ相手が帝国の皇帝であろうとも。
***
その日の夕刻、大使館に帝宮からの使者が訪れた。
「セレスティア様。オスヴァルト宰相閣下より、明日午後、お目にかかりたいとの申し出がございます」
私は使者の差し出した書状を受け取った。
宰相オスヴァルト。
三年前、父の逮捕を主導した人物。
父が反逆者として裁かれたとき、法廷で罪状を読み上げたのも彼だった。
そして、私とアレクシスの婚約が破棄された後、私の行方を追うことに反対した人物でもある。
偶然だろうか。
いいえ。
偶然で片づけるには、あまりにも多くのものが彼の周囲で失われている。
「承知しました。ただし、面会は大使館内でお願いいたします。記録係も同席させていただきますわ」
使者は一瞬戸惑ったものの、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました。宰相閣下にお伝えいたします」
使者が去った後、私は書状を机に置いた。
宰相が私に会いたがる理由はわからない。
けれど、向こうから接触してきた以上、利用しない手はなかった。
私は父の遺品である小さなロケットを取り出した。
蓋の裏には、父の筆跡でこう刻まれている。
『真実は、最も信頼する者の影に隠される』
幼い頃、意味を尋ねた私に、父は笑って答えた。
『いつかわかる日が来る。そのときは、目に見えるものだけを信じてはいけないよ』
当時の私は、その言葉の意味を理解できなかった。
けれど今なら、少しだけわかる気がする。
父を裏切ったのは、本当に敵だったのだろうか。
それとも、父が信じていた誰かだったのだろうか。
私はロケットを握りしめた。
「お父様……必ず、真実を明らかにします」
たとえ、その真実がどれほど残酷なものだったとしても。
***
同じ頃、帝宮ではアレクシスが一通の書簡に目を通していた。
差出人は、ルシアン・エヴァレット大公。
内容は、セレスティアとその随行者に対する外交上の待遇についてだった。
『セレスティア嬢は、エヴァレット大公国の正式な使節として帝国を訪問している。
彼女とその随行者に対し、外交上の礼節と安全を保証していただきたい。
彼女の意思を無視した接触や、不当な拘束が行われることのないよう願う』
短い文章だった。
だが、その一文一文には、彼女を守ろうとする強い意志が感じられた。
アレクシスは書簡を机に置き、窓の外を見つめた。
セレスティアを守っている男。
彼女が信頼し、帰りを待つ男。
自分が失った三年間、彼女のそばにいた男。
胸の奥に、言葉にできない感情が渦巻いた。
嫉妬なのか、後悔なのか。
あるいは、もっと身勝手な執着なのか。
「陛下。いかがなさいましたか」
側近の声に、アレクシスは我に返った。
「大使館への警備を強化しろ。ただし、彼女たちの自由を妨げるな。外交使節としての権利を厳守させろ」
「承知いたしました」
「それから、三年前のヴァレンティア公爵の裁判記録をすべて集めろ。証言、証拠品、判決に関わった者の記録もだ。一つも欠かすな」
「……宰相閣下にも、ご報告を?」
「私が許可するまで、誰にも知らせるな」
側近が退出すると、アレクシスは再び机の引き出しを開けた。
そこには、三年前の手紙があった。
何度読み返しても、短い文章しか書かれていない。
それなのに、その一通を読むたび、彼は自分が何を失ったのかを突きつけられる。
あのとき、彼女の話を聞いていたら。
あのとき、彼女を信じていたら。
彼女は、今も自分の隣にいたのだろうか。
答えは出ない。
そして、どれほど悔やんでも、過去は戻らない。
「セレスティア……」
彼は初めて、彼女の名を口にすることさえ恐ろしく感じた。
彼女は戻ってきた。
けれど、それは自分のもとへ戻るためではない。
彼女は真実を求めている。
そして、その真実の先に自分がいるのだとしたら。
アレクシスは、すべてを知る覚悟を決めなければならなかった。
翌日、セレスティアはオスヴァルト宰相と対峙する。
三年前、父を死へ追いやった男と。
そして、父が最期まで信じていた誰かの影を知るために。
たとえ、その先に待つ真実が、私の想像を超えるほど残酷なものだったとしても。




