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皇帝陛下、あなたの後継者は私が育てます  作者: ももにく


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3/8

第3話 あなたの子ではありません

「あなたは、三年前に私が何を伝えようとしていたのか、覚えていらっしゃいますか?」


私の問いに、アレクシスは答えなかった。


皇帝の執務室には、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いていた。


大きな窓から差し込む朝日が、彼の黒髪を照らしている。


三年前と同じ顔。


三年前と同じ黄金色の瞳。


けれど、もう私の知っている男ではない。


「……覚えていない」


やがて、彼はそう答えた。


私は笑いそうになった。


覚えていない。


その一言で済ませられるほど、私にとってあの夜は軽いものだったのだろうか。


「そうですか」


私は静かに頷いた。


「では、思い出していただく必要もありませんわ」


「待て。君は何を言おうとしていた?」


「今さらお伝えすることはございません」


「セレスティア」


彼が机を回り込み、私の前に立った。


「頼む。答えてくれ」


頼む。


その言葉を、私は初めて彼の口から聞いた気がした。


かつての彼は、私に命令することはあっても、頼み事などしなかった。


皇太子として生まれ、誰もが彼の言葉に従う世界で生きてきた男。


彼にとって、望むものは手に入れるのが当然だったのだろう。


私も、そのひとつだった。


彼が愛していると言えば、私は信じた。


彼が未来を約束すれば、私は疑わなかった。


そして彼が私を捨てたとき、私は自分の存在そのものを否定された気がした。


「陛下」


私は彼を見上げた。


「私はもう、あなたの婚約者ではございません」


「わかっている」


「あなたに何かを説明する義務もありません」


「それも、わかっている」


「でしたら、どうかお忘れくださいませ」


彼は唇を引き結んだ。


忘れられるはずがない。


そんな顔をしていた。


けれど、私はもう彼の表情を読み解こうとは思わなかった。


かつては、彼のわずかな沈黙さえ気になった。


機嫌が悪いのだろうか。


何か気に障ることを言ったのだろうか。


どうすれば、また笑ってくれるのだろうか。


そんなことばかり考えていた。


今は違う。


彼が何を考え、何を望んでいるのか。


それを知ったところで、私の人生は変わらない。


「ノアは、いくつだ?」


唐突な質問だった。


私は眉ひとつ動かさなかった。


「三歳ですわ」


「誕生日は?」


「陛下。子供の誕生日をお知りになりたいのでしたら、まずは私に尋ねる前に、なぜ私が何も伝えずに去ったのかを考えるべきではありませんか?」


彼の顔が強張った。


「君は、私に何も伝えなかった」


「ええ」


「なぜだ?」


その問いに、私は初めて目を細めた。


なぜ。


本当に、わからないのだろうか。


「陛下は、三年前に私の話を聞こうとなさいましたか?」


「……」


「私が父の無実を訴えたとき、耳を傾けてくださいましたか?」


彼は何も言わなかった。


「私は何度も、あなたに会わせてほしいと願いました。手紙も送りました。あなたなら、父が反逆など企てるはずがないとわかってくださると信じていたからです」


喉の奥が熱くなった。


けれど、泣くつもりはなかった。


もう、あの頃の私ではない。


「それなのに、あなたは私を遠ざけた。私の父が処刑された日でさえ、あなたは姿を見せなかった」


「私は……」


「そして最後に、婚約を破棄なさいました」


私は一歩、彼から離れた。


「そのとき、私は理解したのです。あなたにとって、私の言葉など必要なかったのだと」


「違う!」


彼の声が室内に響いた。


私は驚かなかった。


「違うんだ、セレスティア。私は君を……」


「愛していた、とおっしゃるのですか?」


彼は口を閉ざした。


私は微笑んだ。


「その言葉は、もう必要ありませんわ」


彼の瞳が揺れた。


「私は、あなたの愛を信じた結果、すべてを失いました。父も、家も、未来も。そして、自分自身さえ見失いかけた」


私は胸元に手を当てた。


「それでも、生きなければなりませんでした。お腹に、この子がいたから」


言葉にしてから、しまったと思った。


部屋の空気が凍りついた。


アレクシスは、私を見つめたまま動かなかった。


「……お腹に?」


私は視線を逸らさなかった。


ここまで話した以上、もう取り繕う必要はない。


「ええ」


「君は、あのとき……」


彼の唇が震えた。


「妊娠していたのか?」


「そうですわ」


彼は一歩、後ずさった。


まるで、足元が崩れたかのようだった。


「なぜ……なぜ、言わなかった?」


その問いに、私の中で何かが静かに切れた。


「お伝えしようとしました」


私ははっきりと言った。


「三年前、あなたに最後の手紙を送りました。直接お会いして、伝えたいことがあると書きました」


彼の顔色が変わった。


「手紙……?」


「ええ。でも、あなたは来ませんでした」


私は彼の目を見つめた。


「私が何を伝えようとしていたのか、知ろうともなさらなかった」


アレクシスは、何かを言いかけて口を閉じた。


彼は知らなかったのだろう。


自分が読まずにしまい込んだ手紙の意味を。


けれど、知らなかったからといって、私が受けた傷が消えるわけではない。


「ノアは、私がひとりで産みました」


声が震えそうになり、私は一度息を吸った。


「私が熱を出しても、そばにいてくれる人はいませんでした。夜中に痛みに耐えても、手を握ってくれる人はいませんでした」


本当は、もっと話したいことがあった。


初めてノアの泣き声を聞いた瞬間。


小さな手が私の指を握ったときの温かさ。


この子を守るためなら、何度でも立ち上がろうと思えたこと。


けれど、それを彼に語る必要はなかった。


「私は、この子を守るために生きてきました。あなたに父親としての役割を求めたことは、一度もありません」


「セレスティア……」


「ですから、どうか誤解なさらないでくださいませ」


私は深く頭を下げた。


「ノアは、私の息子です」


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。


やがて、アレクシスが低い声で尋ねた。


「……私の子なのか?」


私は彼を見つめた。


ここで否定することは簡単だった。


違うと言えば、彼は諦めるかもしれない。


けれど、嘘をつく必要もない。


私は彼の質問に答えなかった。


「陛下。私は和平交渉のために帝国へ戻ってきました。過去の恋愛について話し合うためではありません」


「答えてくれ」


「お答えする必要がございません」


「私は、あの子の父親かもしれないんだぞ!」


その声に、私は初めて怒りを覚えた。


「かもしれない?」


思わず、笑みがこぼれた。


「陛下は、本当に何もおわかりになっていないのですね」


彼の顔が歪んだ。


「何が言いたい?」


「父親である可能性があるから、何だというのですか?」


私は一歩、彼に近づいた。


「血がつながっていれば、父親になれるとでも?」


彼は答えなかった。


「ノアが生まれたとき、あなたはどこにいらしたのですか? 初めて笑ったときは? 初めて歩いたときは? 夜中に泣き続けて、私がどうしていいかわからず、一緒に泣いていたときは?」


声が、少しずつ強くなっていく。


「あなたは、何ひとつご存じないでしょう?」


アレクシスは、ただ私を見つめていた。


「それなのに、今さら父親を名乗るおつもりですか?」


「私は……」


「陛下」


私は彼の言葉を遮った。


「ノアの人生を、あなたの都合で変えないでください」


その言葉だけは、どうしても伝えたかった。


この子は、私の復讐の道具ではない。


皇位継承のための存在でもない。


ただ、愛されて育つべき子供なのだ。


「私は、あの子を守ります」


私は静かに告げた。


「たとえ、あなたが相手であっても」


アレクシスは長い間、何も言わなかった。


やがて彼は、苦しそうに目を閉じた。


「……わかった」


意外な言葉だった。


「今すぐ答えを求めるつもりはない」


私は黙って彼を見つめた。


「だが、真実を知りたい。三年前に何があったのかも、君がどうやって生き延びたのかも」


「それは、陛下のご自由ですわ」


「そして、君とノアを守りたい」


私は思わず眉をひそめた。


守りたい。


その言葉を、彼は簡単に口にする。


かつて、私を守らなかった男が。


「ご心配には及びません」


私は扉へ向かった。


「私たちには、守ってくださる方がいますから」


ルシアンの顔が浮かんだ。


私が帝国から逃げ延びたあと、何も聞かずに手を差し伸べてくれた人。


彼は私を哀れむことも、過去を責めることもなかった。


ただ、私が生きていけるように、居場所を与えてくれた。


アレクシスとは違う。


愛していると言いながら私を切り捨てた男と、愛を口にする前から私を支えてくれた男。


その違いを、私はもう知っている。


「セレスティア」


扉に手をかけたとき、彼が私を呼んだ。


私は振り返らなかった。


「……君は、私を憎んでいるのか?」


その問いに、私はしばらく黙っていた。


憎んでいる。


そう答えることはできた。


実際、彼を憎んだ夜は数え切れないほどあった。


けれど、今の私にとって、彼への憎しみさえ過去の一部になりつつある。


私はゆっくりと答えた。


「陛下」


そして、扉を開けた。


「あなたを憎むことにさえ、もう時間を使いたくありません」


それだけ言い残し、私は部屋を出た。


背後で、何かが倒れる音がした。


けれど、振り返らなかった。


⸻


執務室にひとり残されたアレクシスは、しばらく動けずにいた。


彼女の最後の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


あなたを憎むことにさえ、もう時間を使いたくありません。


愛していないと言われるよりも、ずっと残酷な言葉だった。


彼女はもう、自分を見ていない。


怒りも、悲しみも、期待さえも。


すべてを手放してしまったのだ。


「……私は、何をした?」


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


机の上には、三年前の手紙が置かれている。


彼はその手紙を手に取った。


『あなたに伝えなければならないことがあります』


あの夜、彼女は何を伝えようとしていたのだろう。


そして、なぜ自分は彼女の話を聞かなかったのだろう。


「陛下」


扉の向こうから、近衛騎士の声が聞こえた。


「何だ」


「オスヴァルト公爵がお見えです。至急、お伝えしたいことがあるとのことです」


アレクシスは顔を上げた。


「入れ」


扉が開き、宰相が入室する。


オスヴァルトは、机の上の手紙に視線を落とした。


「……三年前のお手紙でございますか」


「なぜ、これを知っている?」


「当時、陛下のお手元に届けられた書状については、私も報告を受けておりましたので」


アレクシスは目を細めた。


「この手紙が届いたことを、知っていたのか?」


「はい」


「なぜ、私に知らせなかった?」


オスヴァルトは一瞬だけ沈黙した。


「陛下は、婚約破棄を決断された直後でございました。これ以上、令嬢と接触なさることは、皇位継承に悪影響を及ぼすと判断したのでございます」


「……つまり、お前が止めたのか?」


「陛下のご意向を尊重したまでです」


アレクシスは手紙を握りしめた。


あの夜、彼女の話を聞かなかったのは、自分の意思だった。


だが、その選択に至るまで、誰かが情報を遮っていたのだとしたら。


そして、その人物が、今も帝国の中心にいるのだとしたら。


「オスヴァルト」


アレクシスは低い声で告げた。


「三年前の事件について、もう一度すべて調べ直せ」


宰相の表情は変わらなかった。


「承知いたしました、陛下」


しかし、彼が部屋を出たあと。


アレクシスは、机の上の手紙を見つめ続けていた。


三年前、彼はセレスティアを失った。


そして今日、彼女が自分の知らない三年間を生きてきたことを知った。


その三年間に、彼女は息子を産み、育てた。


自分の助けを借りずに。


自分の名前を呼ばずに。


自分を必要とすることなく。


彼は、初めて理解し始めていた。


失ったのは、婚約者という地位だけではない。


自分が父親になれたかもしれない時間も。


息子が初めて笑う瞬間も。


彼女が母親になる姿を見守る機会も。


すべて、自分の手で手放してしまったのだ。


「……セレスティア」


彼は目を閉じた。


けれど、後悔したところで、時間は戻らない。


そして彼は、まだ知らなかった。


三年前、彼女を追い詰めた事件の裏側に、自分が信頼してきた男の影があることを。



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