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皇帝陛下、あなたの後継者は私が育てます  作者: ももにく


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第2話 私を捨てた男の名前

謁見の間を出たあとも、皇帝の声が耳から離れなかった。


『その子の父親は誰だ!』


まるで、自分には私を問い詰める権利があるとでもいうような声だった。


私は廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。


三年前、あの男は私を見捨てた。


それなのに、今さら何を求めているのだろう。


「セレスティア様」


隣を歩いていた侍女が、心配そうに私を見上げた。


「お疲れではありませんか?」


「大丈夫よ」


「ですが、陛下はかなり動揺されていたように見えました」


「そうね」


私は足を止めずに答えた。


「死んだと思っていた女が目の前に現れたのですもの。当然でしょうね」


「陛下は、本当にセレスティア様が亡くなられたと信じていらしたのでしょうか?」


その問いに、私は一瞬だけ黙り込んだ。


三年前。


父が反逆者として捕らえられた夜、私は皇宮へ向かった。


アレクシスなら、きっと話を聞いてくれる。


私の父がどれほど誠実な人間か、彼は誰よりも知っているはずだった。


だから、助けてくれると信じていた。


けれど、彼は私を謁見室にすら入れなかった。


翌日、父には処刑の判決が下された。


そして、その日の夕刻。


私は皇太子の婚約者という立場さえ奪われた。


『君を愛していたことは認めよう。だが、皇后にすることはできない』


あのときの彼の顔を、私は今でも覚えている。


冷たく、無表情で、まるで見知らぬ人間を見るような目だった。


私が泣いても、すがっても、彼は一度も手を差し伸べなかった。


それなのに、今になって私の生死を気にするなんて。


「……どうでしょうね」


私は侍女の問いに、それだけ答えた。


「いずれ、わかることですわ」


そのとき、後ろから小さな足音が聞こえた。


「お母様!」


振り返ると、ノアが侍従に手を引かれながら駆け寄ってきた。


「ノア、走ってはだめよ」


「ごめんなさい!」


そう言いながらも、彼は私のドレスをぎゅっと握った。


「ねえ、お母様。もう帰れる?」


「まだよ。お仕事が終わったら帰りましょうね」


「ルシアン様に会いたい」


その言葉に、私は自然と笑みを浮かべた。


「そうね。ルシアン様も、あなたに会いたがっているでしょうね」


「お手紙書いてもいい?」


「もちろんよ」


ノアは嬉しそうに頷いた。


私は彼の髪を撫でながら、心の中でそっと誓った。


この子だけは、絶対にあの宮殿の犠牲にしない。


皇族の血を引いているからといって、皇位争いに巻き込ませるつもりはなかった。


ノアは私の息子だ。


それ以上でも、それ以下でもない。


彼には、誰かの期待に応えるためではなく、自分の望む人生を歩んでほしい。


たとえそのために、私がどれほどのものを犠牲にすることになっても。


「セレスティア様」


侍従が恭しく頭を下げた。


「本日の宿泊先へご案内いたします。陛下より、滞在中は皇宮内の客室をお使いいただきたいとのお言葉を預かっております」


「結構です。私たちは、予定どおり大使館に滞在いたします」


「しかし、陛下はぜひとも……」


「和平交渉に必要なのは、宿泊先ではなく、誠実な話し合いですわ」


私は微笑んだ。


「陛下には、そうお伝えくださいませ」


侍従は困惑した表情を浮かべたものの、それ以上は何も言わなかった。


私はノアの手を握り、再び歩き始めた。


皇宮の窓から差し込む夕日が、長い廊下を赤く染めていた。


まるで、三年前に流された血の色のようだった。


⸻


同じ頃、皇宮の執務室では、アレクシスが机の前に立ち尽くしていた。


「……生きていた」


彼は、誰に聞かせるでもなく呟いた。


セレスティア・ヴァレンティア。


三年前、反逆者の娘としてすべてを失い、皇宮から姿を消した女。


彼女は死んだと報告されていた。


少なくとも、アレクシスが受け取った報告書には、そう記されていた。


彼女の乗った馬車が国境付近で襲撃され、乗員は全員死亡。


遺体は損傷が激しく、身元の特定は困難だったという。


それでも、皇宮は彼女の死亡を認定した。


アレクシス自身も、その報告を疑わなかった。


いや。


疑おうとしなかったのかもしれない。


「陛下」


扉の向こうから、低い声が聞こえた。


「入れ」


現れたのは、帝国の宰相オスヴァルト公爵だった。


年齢を感じさせない整った身なりに、穏やかな微笑み。


長年、皇族に仕えてきた男であり、アレクシスが皇帝となる過程でも大きな役割を果たした人物だった。


「陛下。先ほど、エヴァレット大公国の使節が退出したと報告を受けました」


「……ああ」


「和平交渉の代表者が、まさかヴァレンティア公爵令嬢だったとは。私も驚きました」


その言葉に、アレクシスは顔を上げた。


「知っていたのか?」


「いいえ。先ほど初めて知りました」


オスヴァルトは恭しく頭を下げた。


「ですが、三年前に亡くなったはずの令嬢が生きていたとなれば、調査が必要でしょう」


「当然だ」


アレクシスは机に置かれた書類を手に取った。


「彼女の過去をすべて調べろ。三年前、帝国を出てから何があったのか。誰が彼女を助けたのか。そして、あの少年についてもだ」


「少年、でございますか?」


「ノアという名だった」


アレクシスの声が低くなる。


「年齢は三歳ほど。黒髪に、黄金の瞳を持っていた」


オスヴァルトの表情が、ほんのわずかに変化した。


「……なるほど」


「何か知っているのか?」


「いえ。ただ、皇族と同じ瞳を持つ子供となれば、噂が広まる前に慎重に扱う必要があるかと」


「噂など、どうでもいい」


アレクシスは書類を机に叩きつけた。


「私は、あの子のことを知りたいのだ」


執務室に沈黙が落ちた。


しばらくして、オスヴァルトが静かに口を開いた。


「陛下。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「もし、あの少年が陛下のお子であった場合、どうなさるおつもりですか?」


アレクシスは答えなかった。


もし、ノアが自分の息子なら。


なぜ、セレスティアは何も告げずに姿を消したのか。


なぜ、三年間、一度も助けを求めなかったのか。


そして、なぜ今になって戻ってきたのか。


疑問は次々と浮かんでくる。


けれど、そのどれよりも彼の胸を締めつけているものがあった。


自分には息子がいるかもしれない。


そして、その子は自分を父親だと知らない。


「……まずは、事実を確かめる」


アレクシスはようやく答えた。


「それまでは、誰にも口外するな」


「承知いたしました」


オスヴァルトは一礼した。


しかし、執務室を出る直前、彼は一度だけ振り返った。


「陛下。過去のことを掘り返すのは、必ずしも賢明とは限りません」


「どういう意味だ?」


「帝国は、ようやく安定したばかりでございます。三年前の事件が再び話題になれば、陛下の治世にも影響が及ぶでしょう」


アレクシスの目が細くなった。


「私は、真実を知りたいと言ったのだ」


「……失礼いたしました」


オスヴァルトは深く頭を下げ、部屋を出ていった。


扉が閉まったあとも、アレクシスはしばらく動かなかった。


やがて彼は、机の引き出しを開けた。


そこには、一通の古い手紙がしまわれていた。


三年前、セレスティアから届いた最後の手紙。


婚約破棄の直前、彼女が彼に宛てて書いたものだった。


封は切られていない。


彼は、その手紙を一度も読んでいなかった。


読む必要などないと思っていたからだ。


彼女との未来は終わった。


そう、自分に言い聞かせていた。


けれど、今になってその手紙が、ひどく重いものに感じられた。


アレクシスは封蝋を見つめた。


そして、ゆっくりと封を切った。


中には、短い文章が記されていた。


『アレクシス様。


どうか、一度だけ私の話を聞いてください。


あなたに伝えなければならないことがあります。


もし、あなたが私を信じてくださるなら、明日の夕刻、いつもの庭園でお待ちしております。


セレスティア』


アレクシスの指が止まった。


いつもの庭園。


二人が初めて愛を誓い合った場所。


そして、婚約破棄を告げる前日、彼女が最後に彼を待っていた場所でもあった。


彼は、手紙を握りしめた。


あの夜。


彼女は、何を伝えようとしていたのだろう。


なぜ、自分はその手紙を読まなかったのだろう。


そして、もしあのとき、彼女の話を聞いていたら。


何かが変わっていたのだろうか。


「……セレスティア」


彼は、初めて自分の過ちを恐れた。


⸻


その夜、帝都の大使館。


ノアが寝台で眠りについたあと、私は窓辺に座っていた。


夜風が、薄いカーテンを揺らしている。


机の上には、父の形見である小さな銀のロケットが置かれていた。


私はそれを開いた。


中には、幼い頃の私と父が並んで写った肖像画が入っている。


父は、いつも私に言っていた。


『人を信じることは、弱さではない。だが、信じた相手が間違っていたと気づいたとき、自分まで失ってはいけないよ』


あの頃の私は、その言葉の意味を理解していなかった。


アレクシスを信じていた。


彼なら、どんなことがあっても私を守ってくれると。


けれど、彼は私を守らなかった。


父を救わなかった。


私の声を聞かなかった。


それでも、私は彼を愛していた。


愛していたからこそ、あの裏切りは私のすべてを壊した。


「お父様……」


小さく呟く。


「もうすぐ、あなたの無実を証明できます」


そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「セレスティア様。お手紙が届いております」


「今?」


「はい。隣国からの急ぎの書状とのことです」


私は立ち上がり、扉を開けた。


侍女が差し出した封筒には、見慣れた紋章が押されていた。


エヴァレット大公家の紋章。


私は封を切り、中の便箋を広げた。


そこには、ルシアンの整った筆跡で短い文章が記されていた。


『セレスティア。


帝国で何が起きても、君が自分を犠牲にする必要はない。


君が望むことを成し遂げてほしい。


ただし、帰る場所があることだけは忘れないでくれ。


ルシアン』


私は目を閉じた。


彼は、いつだってそうだった。


私に何かを強制することはない。


復讐をやめろとも、過去を忘れろとも言わない。


ただ、私が帰ってこられる場所を守ってくれている。


「……ありがとう、ルシアン」


私は手紙を胸に抱いた。


そして、机に向かい、新しい便箋を取り出した。


明日から、私は本格的に動き始める。


父の死の真相を暴くために。


三年前の事件に関わった者たちを、一人残らず見つけ出すために。


そして、あの男が守ろうとした帝国の秘密を、白日の下にさらすために。


私はペンを手に取り、最初の名前を書き記した。


オスヴァルト公爵。


帝国の宰相であり、父の逮捕を指揮した人物。


三年前、父は処刑される直前、私にこう言った。


『セレスティア。誰を信じるか、慎重に選びなさい』


あのときは、意味がわからなかった。


けれど今なら、わかる気がする。


父は、真実を知っていたのだ。


私は便箋を見つめた。


そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。


「セレスティア様!」


侍女が、青ざめた顔で駆け込んできた。


「大変です!」


「どうしたの?」


「先ほど、帝国の使者が……」


彼女は息を整え、震える声で告げた。


「陛下が、明日の朝一番に、セレスティア様との個別謁見をお求めです」


私は、ゆっくりとペンを置いた。


やはり、来た。


アレクシスは、私とノアの関係を知ろうとしている。


そして、おそらく彼はまだ知らない。


三年前、私が彼に伝えようとしたことを。


あの夜、彼が私の話を聞いてさえいれば、何かが変わっていたかもしれないことを。


私は窓の外を見つめた。


夜空には、雲の切れ間から月が覗いていた。


「……いいでしょう」


私は静かに微笑んだ。


「お会いしましょう、陛下」


けれど、今度は違う。


三年前の私は、彼に信じてほしかった。


今の私は、彼が何を言おうと、もう揺るがない。


彼が謝罪しても。


彼が後悔しても。


彼が、ノアを自分の息子だと主張しても。


私は、私の目的を果たす。


そのためなら、かつて愛した男の前でさえ、微笑んでみせる。


そして翌朝。


皇帝の執務室に呼び出された私を待っていたのは、思いもよらない言葉だった。


「セレスティア。あの子は、私の息子なのか?」


三年越しの問い。


私は彼を見つめた。


そして、答える前に、ひとつだけ尋ねた。


「陛下。もし、そうだとしたら?」


彼の瞳が揺れた。


私は微笑んだ。


「あなたは、三年前に私が何を伝えようとしていたのか、覚えていらっしゃいますか?」


アレクシスは、答えられなかった。


その沈黙こそが、私の知りたかった答えだった。


彼は、まだ何も知らない。


そして私は、まだ何も許していない。


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