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皇帝陛下、あなたの後継者は私が育てます  作者: ももにく


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第1話 皇帝陛下、あなたの息子は私のものです

帝国の宮殿に、三年ぶりに足を踏み入れた。


磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされた黄金のシャンデリア。壁に飾られた歴代皇帝の肖像画。


何もかもが、記憶の中と同じだった。


変わったのは、私の名前と、隣にいる小さな男の子だけ。


「お母様、ここ、きらきらしてるね」


私の手を握るノアが、天井を見上げて目を輝かせた。


柔らかな黒髪に、透き通るような白い肌。そして、太陽を閉じ込めたような黄金色の瞳。


その瞳を見るたびに、私は三年前の自分を思い出す。


あの頃の私は、世界で一番幸せな女だった。


皇太子の婚約者。


次期皇后。


誰もが羨む未来を約束された、公爵令嬢。


そして、ひとりの男を心から愛していた。


「そうね。とても綺麗な場所でしょう?」


「うん! でも、ルシアン様のおうちのほうが好き!」


思わず笑みがこぼれた。


「どうして?」


「だって、ルシアン様がいるもん!」


無邪気な答えに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


ルシアン・エヴァレット。


隣国の大公であり、私とノアを三年間支えてくれた人。


彼は私たちに居場所を与えてくれた。


私が夜中にうなされても、過去の悪夢に泣いても、何も聞かずにそばにいてくれた。


ノアにとって、ルシアンは大切な存在だった。


血のつながりなど関係ない。


少なくとも、私はそう思っている。


「お母様?」


「なあに?」


「お母様、ちょっと怖い顔してる」


小さな指が、私の頬に触れた。


私は慌てて微笑む。


「ごめんなさい。少し考え事をしていたの」


「痛いの?」


「いいえ。どこも痛くないわ」


嘘だった。


胸の奥が、ずっと痛かった。


けれど、それは今に始まったことではない。


三年前から、ずっとそうだった。


「セレスティア様。間もなく陛下との謁見が始まります」


侍従の声に、私は顔を上げた。


「承知しました」


セレスティア。


それが、私の名前だった。


セレスティア・ヴァレンティア。


かつて帝国で最も名高かったヴァレンティア公爵家の一人娘。


そして、皇太子アレクシスの婚約者だった女。


彼の隣に立つ未来を疑ったことなど、一度もなかった。


彼もまた、私を愛していると言ってくれたから。


『セレスティア。いつか君を、この帝国で最も幸せな皇后にする』


そう囁きながら、私の額に口づけてくれた。


あの言葉を、私は信じていた。


愚かなほどに。


「セレスティア様?」


侍従に呼ばれ、私は現実に引き戻された。


「失礼しました。参りましょう」


ノアの手を握り直す。


今日、私はこの国へ戻ってきた。


父を反逆者に仕立て上げた者たちを裁くため。


奪われた家名を取り戻すため。


そして、三年前に私を見捨てた男と、もう一度向き合うために。


今さら、愛を取り戻したいわけではない。


謝罪を聞きたいわけでもない。


ただ、あの男に知ってほしかった。


彼が捨てた女は、彼がいなくても生きてきたのだと。


彼の手を借りずとも、息子を守り抜いたのだと。


「お母様、どこに行くの?」


「皇帝陛下にご挨拶をするのよ」


「皇帝様って、偉い人?」


「ええ。この国で一番偉い方よ」


「じゃあ、ルシアン様より偉いの?」


「……どうかしら」


私は小さく笑った。


「偉いことと、立派なことは違うのよ」


ノアは不思議そうに首を傾げた。


その仕草があまりにも愛らしくて、私は彼の頬をそっと撫でた。


この子だけは、何があっても守る。


それが、私の生きる理由だった。


やがて、巨大な扉の前にたどり着いた。


扉の両側には、黄金の鎧をまとった近衛騎士たちが立っている。


その向こうに、皇帝がいる。


アレクシス・フォン・アルヴェイン。


三年前、私の人生を壊した男。


「セレスティア・ヴァレンティア様のご到着です!」


重厚な扉が、ゆっくりと開いた。


私は一歩を踏み出した。


そして、玉座に座る男と目が合った。


黒髪。


黄金の瞳。


冷たいほどに整った顔立ち。


帝国中の貴婦人たちが憧れる、美しい皇帝。


私が知っている彼と、何も変わっていなかった。


ただ、以前よりもずっと遠い存在に見えた。


彼の手から、ワイングラスが滑り落ちた。


甲高い音が、静まり返った謁見の間に響く。


赤い液体が、白い大理石の床を汚した。


「……セレスティア?」


彼の唇が震えた。


「そんな……馬鹿な」


私は優雅に膝を折り、礼をした。


「お久しゅうございます、陛下」


できる限り穏やかな声を出したつもりだった。


けれど、彼の顔から血の気が引いていくのがわかった。


「君は……三年前に……」


「亡くなったはず、とおっしゃりたいのですか?」


私は顔を上げた。


「残念ながら、私はまだ生きておりますわ」


周囲の貴族たちがざわめいた。


無理もない。


反逆者として処刑された公爵家の令嬢。


皇太子に婚約を破棄され、宮殿から追放された女。


誰もが死んだと信じていた女が、再び帝国へ帰ってきたのだから。


「なぜだ……」


アレクシスが玉座から立ち上がる。


「なぜ、君がここにいる?」


「和平交渉のためですわ。陛下がお招きになったのでしょう?」


「そういう意味ではない!」


彼の声が響いた。


昔なら、私はその声に怯えていただろう。


彼の機嫌を損ねないように、必死に言葉を選んでいただろう。


けれど、今は違う。


私はもう、彼の婚約者ではない。


彼に愛されることを願う女でもない。


「陛下。公の場ですわ。どうかお心をお静めくださいませ」


その言葉に、彼は口を閉ざした。


まるで、初めて私という人間を見たかのように。


そのときだった。


「お母様?」


ノアが私の背後から顔を出した。


「もうご挨拶は終わった?」


「ええ、もう少しよ」


私は彼の手を握ったまま、皇帝へ向き直った。


その瞬間。


アレクシスの視線が、ノアへと移った。


そして、止まった。


少年の黒髪。


白い頬。


そして、黄金色の瞳。


皇帝と、まったく同じ瞳だった。


「……その子は?」


アレクシスの声が、かすれた。


私は答えなかった。


彼は一歩、玉座から降りた。


「その子は誰だと聞いている」


「私の息子ですわ」


「名前は?」


「ノアと申します」


「姓は?」


私は微笑んだ。


「今は、ノアとだけお呼びくださいませ」


その瞬間、彼の表情が凍りついた。


彼は私とノアを交互に見つめた。


信じたくないものを見るような顔だった。


そして、ようやくひとつの可能性にたどり着いたのだろう。


「まさか……」


彼の唇が、わずかに開く。


「その子は、私の……」


「陛下」


私は彼の言葉を遮った。


「何か、勘違いをなさっているのではありませんか?」


「セレスティア!」


彼が私の名を叫んだ。


三年前、彼は一度も私をこうして呼び止めなかった。


私が助けを求めたときも。


父の命乞いをしたときも。


最後に、彼を信じたいと泣いたときでさえ。


彼は私から目を逸らした。


『君を愛していたことは認めよう。だが、皇后にすることはできない』


あの夜の言葉が、今も耳に残っている。


私はゆっくりと息を吸った。


「陛下。私は三年前、あなたから婚約を破棄されました」


「それは……」


「父は処刑され、私の家名は汚されました。私は何も持たずに、帝国を追われたのです」


「待ってくれ。私は……」


「ですから」


私は一歩、後ろへ下がった。


「今さら、私の人生に口を出す権利はございません」


彼の顔が歪んだ。


怒りなのか、戸惑いなのか、それとも別の感情なのか。


今の私には、もうわからなかった。


「セレスティア。その子は、本当に……」


「お母様」


ノアが、私のドレスを引っ張った。


「この人、どうしてそんなに僕を見ているの?」


私は彼の頭を撫でた。


「不思議に思っていらっしゃるのよ」


「僕、何かした?」


「いいえ。あなたは何も悪くないわ」


ノアは安心したように笑った。


それから、皇帝を見上げた。


「ねえ、皇帝様」


謁見の間にいた全員が、息を呑んだ。


「僕、お母様をいじめる人は嫌いだよ」


アレクシスの顔から、表情が消えた。


「……何?」


「お母様、夜になると時々泣くんだ。昔、怖いことがあったんだって」


ノアは少し考えるように唇を尖らせた。


「だからね、僕が大きくなったら、お母様を絶対に守るの」


胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


この子は知らない。


自分の父親が誰なのか。


私が、どれほど彼を愛し、そして憎んだのか。


私はノアを抱き寄せた。


「ありがとう、ノア」


そして、アレクシスを見つめる。


彼は何も言わなかった。


ただ、黄金の瞳でノアを見つめていた。


その目に浮かぶ感情を、私は読み取れなかった。


けれど、ひとつだけ確かなことがある。


彼は今、初めて知ったのだ。


自分が失ったものの大きさを。


「陛下」


私は最後に、優雅に微笑んだ。


「和平交渉のお話をいたしましょう。私情を挟む時間はございませんので」


踵を返す。


もう、振り返るつもりはなかった。


けれど。


「待て、セレスティア!」


背後から、彼の声が響いた。


「その子の父親は誰だ!」


私は足を止めた。


そして、ゆっくりと振り返る。


三年前、あなたは私の手を離した。


私が泣いても、叫んでも、あなたは振り返らなかった。


だから、今度は私が教えてあげる。


あなたがどれほど必死に手を伸ばしても、決して届かない場所があるのだと。


「私の子です、陛下」


私は静かに告げた。


「あなたには、関係ありませんわ」


彼の顔が、苦痛に歪んだ。


その瞬間、私は初めて、ほんの少しだけ胸がすく思いがした。


けれど、それは喜びではなかった。


復讐が始まったのだ。


そして私は、もう二度と、あの男に人生を支配させない。


たとえ彼が、私の息子の実の父親だったとしても。


私は、彼を選ばない。


それが、三年前にすべてを失った女が、ようやく手に入れた自由だった。

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