第5話 宰相が隠した偽りの証拠
翌日の午後。
エヴァレット大公国大使館の応接室には、静かな緊張が満ちていた。
窓辺には白い花が飾られ、磨き上げられたテーブルの上には紅茶と菓子が用意されている。
一見すれば、穏やかな外交の場だった。
けれど、私は知っている。
これから訪れる男が、三年前に私の人生を壊した者の一人だということを。
「セレスティア様。オスヴァルト宰相閣下がお見えになりました」
侍女の声に、私は顔を上げた。
「お通しして」
扉が開く。
黒い礼服に身を包んだ老紳士が、ゆっくりと室内へ足を踏み入れた。
帝国宰相、オスヴァルト公爵。
白髪交じりの髪を整え、穏やかな微笑みを浮かべている。その姿は、どこから見ても礼節を重んじる高位貴族そのものだった。
三年前、父が反逆者として裁かれたときも、彼は同じ顔をしていた。
『帝国の安寧のため、法に従い厳正な処罰を下すべきです』
あの声を、私は忘れていない。
「お久しぶりです、セレスティア嬢」
宰相は恭しく頭を下げた。
「こうして再びお目にかかれるとは、思ってもおりませんでした」
「私もですわ。まさか、宰相閣下がわざわざ大使館まで足を運んでくださるとは」
「あなたは今や、エヴァレット大公国の正式な使節。礼を尽くすのは当然でしょう」
「それならば、三年前にも礼を尽くしていただきたかったものですわね」
私が微笑んだまま告げると、宰相の目がわずかに細くなった。
ほんの一瞬。
けれど、見逃すには十分な変化だった。
「……三年前のことは、残念でした」
「残念?」
私は首を傾げた。
「父は反逆者として処刑され、私は婚約を破棄され、帝国を去りました。それを、残念という一言で片づけられるのですか?」
「当時は帝国全体が不安定な状況にありました。陛下も、苦渋の決断をなさったのです」
「陛下の決断については、陛下ご本人から伺うつもりです。今日は宰相閣下のお話を聞かせていただけますか?」
宰相はしばらく私を見つめていた。
やがて、懐から一通の書類を取り出す。
「では、こちらをご覧ください」
テーブルの上に置かれたのは、古びた羊皮紙だった。
表題には、こう記されていた。
『ヴァレンティア公爵 反逆計画に関する自白書』
息が止まりそうになった。
父の自白書。
そんなものが存在していたというのか。
「これは、父が書いたものですか?」
「裁判の際に提出された重要な証拠の一つです。公爵自身が帝国軍の機密情報を国外へ流したことを認めています」
私は書類に手を伸ばした。
指先が震えそうになるのを、必死に抑える。
父が反逆者であるはずがない。
幼い頃から、父は帝国と領民を何よりも大切にしていた。
私に政治を教えるときも、いつもこう言っていた。
『力を持つ者ほど、弱い者の声を聞かなければならない』
そんな父が、帝国を裏切るはずがない。
私は自白書を読み進めた。
文面は整っていた。
あまりにも整いすぎていた。
父は公文書を書くとき、独特の癖があった。重要な箇所では文章を短く区切り、最後に必ず日付と署名を記す。
けれど、この書類は違った。
文章の言い回しも、署名の位置も、私の記憶にある父のものとは微妙に異なっている。
「……この書類は、いつ作成されたものですか?」
「公爵が拘束された翌日です」
「翌日?」
私は顔を上げた。
父が拘束されたのは、帝国暦七百二十一年、秋の二十七日。
自白書の日付は、その翌日になっている。
だが、父は拘束された直後、三日間にわたって取り調べを受けていたはずだ。
「父は拘束された当日から、帝都の地下牢に収監されていました。翌日には、まだ正式な尋問も始まっていなかったと聞いています」
「それは記録上の話でしょう。公爵が自ら罪を認めたため、手続きが簡略化されたのです」
「では、証人は?」
「必要ありませんでした。本人の署名があるのですから」
宰相は淡々と答えた。
その声には、揺らぎがない。
だからこそ、私は確信した。
この男は、私がこの書類を疑うことを想定していたのだ。
「セレスティア嬢。あなたも、もう二十四歳です。過去に囚われるのは、そろそろおやめになってはいかがですか」
宰相は紅茶に口をつけた。
「お父上が本当に無実だったとしても、三年前の判決を覆すのは容易ではありません。今さら蒸し返せば、帝国とエヴァレット大公国の関係にも影響が出るでしょう」
「つまり、私に黙っていろと?」
「私は、あなたの将来を案じているのです」
「ご親切にありがとうございます。でも、私の将来は私自身が決めますわ」
私は自白書を閉じた。
「父が本当に罪を犯したというのなら、その証拠をすべて公開してください。取り調べの記録も、裁判の記録も、証言者の名前も」
「すべて、ですか?」
「ええ。一つも欠かさずに」
宰相の微笑みが消えた。
「それは難しいでしょうな。帝国の機密に関わる記録も含まれています」
「父が反逆者だというのなら、機密を理由に真実を隠す必要はないはずです」
沈黙が落ちた。
窓の外から、鳥のさえずりが聞こえる。
やがて宰相は、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたは、お父上によく似ていらっしゃる」
「それは光栄ですわ」
「ですが、正義を追い求めるあまり、取り返しのつかないことになる場合もございます」
「忠告として受け取っておきます」
私は微笑んだ。
「ただし、脅しとして受け取るかどうかは、私が決めますわ」
宰相は何も言わなかった。
彼は書類を置いたまま、静かに頭を下げた。
「本日は失礼いたしました。いずれ、あなたも理解されることでしょう」
扉が閉まる。
私はしばらく、その場から動けなかった。
そして、もう一度自白書を手に取る。
やはり、おかしい。
父の署名は似ている。
けれど、完全には同じではない。
私は懐から小さなロケットを取り出した。
父の遺品。
そこには、父が生前に書いた短い言葉が刻まれている。
『真実は、最も信頼する者の影に隠される』
お父様。
あなたは、誰を疑っていたのですか?
***
宰相が大使館を去ってから、しばらくして。
私は侍女に頼み、三年前の裁判記録を入手するための正式な申請書を作成させた。
外交使節としての立場を利用すれば、帝国政府に記録の開示を求めることはできる。
すぐにすべてが明らかになるとは思っていない。
それでも、一歩も引くつもりはなかった。
「セレスティア様」
侍女が控えめに声をかけた。
「先ほど、こちらをお預かりいたしました」
差し出されたのは、小さな封筒だった。
差出人の名前はない。
封蝋も押されていなかった。
「誰から?」
「大使館の裏口にいた少年が、セレスティア様に渡すようにと」
私は封筒を受け取り、中を確認した。
入っていたのは、古びた紙片だった。
何かの帳簿から切り取られたらしい。
端は破れ、ところどころに黒い染みがついている。
私は紙片を広げた。
そこには、三年前の日付と、複数の金額、そして人名が記されていた。
その中の一つに、私の目が釘付けになった。
『ヴァレンティア公爵拘束費用』
その横には、金額とともに、承認者の署名がある。
オスヴァルト。
間違いない。
宰相の名前だった。
けれど、私を最も驚かせたのは、その日付だった。
父が拘束される、五日前。
つまり、父が反逆者だと告発されるよりも前に、誰かが拘束のための費用を用意していたのだ。
私は紙片を握りしめた。
これは偶然ではない。
少なくとも、父の逮捕が突然決まったものではなかったということだ。
「……誰が、これを?」
答えはない。
窓の外では、夕日が帝都の街並みを赤く染めていた。
三年前、私は何も知らなかった。
父が何を疑い、誰が父を陥れ、なぜアレクシスが私の声を聞こうとしなかったのか。
何もわからないまま、すべてを失った。
けれど今は違う。
小さな紙片でも、そこには真実へ続く道がある。
私は紙片を封筒に戻し、鍵のかかる引き出しにしまった。
その瞬間、扉の向こうから慌ただしい足音が響いた。
「セレスティア様! 帝宮から使者が参りました!」
「今度は何かしら?」
「陛下からのご伝言です。明日、三年前の裁判記録について、直接お話ししたいとのことです」
私は目を細めた。
アレクシス。
彼もまた、過去を調べ始めたのだろう。
けれど、彼を信じることはできない。
三年前、私は彼を信じた。
彼が私の言葉を聞いてくれると信じていた。
その結果、父は処刑され、私はお腹に子どもを抱えたまま、命からがら帝国を逃げ出した。
もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
「お返事を。明日の面会には応じます。ただし、外交使節としての正式な場を設けていただくように」
「かしこまりました」
使者が去った後、私は椅子から立ち上がった。
机の上には、父のロケットが置かれている。
私はそれを胸元にしまった。
「お父様。今度こそ、私があなたの無実を証明します」
そして、誰があなたを裏切ったのか。
そのすべてを明らかにしてみせる。
たとえ、その真実の先に、かつて愛した男の罪が待っていたとしても。
私は、もう目を逸らさない。
第5話・終




