08 大海行路
帝都沖、外界国“マリバナ”民間船内。
激しく揺れる狭い船内で上本は大きく息を吐いた。
帝都の日本大使館を離れた後、あらかじめ用意していた脱出経路でアリサたちを小港まで誘導。そこから友好国の船で沖合に出ることに成功した。
帝国の警備艇に臨検された際は肝を冷やしたが、今は解放された安堵感が大きい。緊張の糸がほぐれ身体が弛緩したのか、床板に引っ付いた腰がなかなか上がらない。
マリバナ船が警備艇に捕捉されたのは今から数時間前のこと。
警備艇に横付けされ、あと一歩のところで船内調査が始まるところだったが、どこからともなく現れた国籍不明の民間船に救われた。
マリバナ船同様それほど大きな船ではなかったが、颯爽と現れては警備艇の乗員と雑談。その矢先に警備艇は臨検を取り止めて去っていった。
いくらか握らせたのかもしれない。
上本はそう直感する。
けれど、なぜ国籍不明の船が助けてくれたのか。
それがいまいちわからなかった。
「なぜ助けたのか? あなたは今そう思っていらっしゃいますね?」
「へっ!?」
心の内を見抜かれ、上本は辺鄙な声を上げる。
上本を含む三人の前に現れたのは白いウィンプルをかぶった一人の女性だった。
マリバナ船内には複数の乗船者がいるが、修道女らしき人物はどういうわけか上本たちに迷わず声を掛ける。
上本は思わず身構える。
「安心しろ。教女様は慈悲の心をお示しになっただけだ。先程の見回り船員のような卑劣極まりない帝国人と一緒にするな」
教女と呼ばれた人物に仕える者が一人、言葉とは裏腹に上本たちに鋭い視線を送る。
露骨な態度がゆえにエルマが反発しようとするが、アリサが腕を伸ばして引き留めた。
「……失礼ですが、慈悲の心とは?」
「早い話が人助けでございます。このあたりの見回り船の中には、立ち入った船から金品や女性を奪う者もいると聞き及んでいます。目の前でそのようなことが起こらないとは限りませんでしたので早めに手を打ったまで。見たところ、この船は難民船のように思えましたし……余計なお世話だったでしょうか?」
教女は右手を左の胸元に当てる。
どこまで優しげな声音が船内に浮遊する。
対してアリサは教女の行為にお礼を述べた。
「いいえ、そのようなことはありません。助けていただいたことに感謝致します。ええとお名前は……?」
「見ず知らずの者にこの方のお名前は教えられない。が、私を含め、みな“教女”様とお呼びしている」
「ワタクシたちは神秘なる境遇を身に宿す者として諸国を放浪し、旅先にて救いの道を説いております。ここ数日は帝国各地を訪問しておりました。そろそろ別な国に渡ろうとしていたところ、ちょうどこの船をお見かけしたものですから――」
「“教導者”と呼ばれる諸国を旅する方々の話は前々から伺っていますが、実際にお会いするのは初めてです。みなさんのお顔を拝見できたことはとても幸運に思います。ですが、先程の神秘なる境遇とは何を指しているのでしょう?」
何の含みもない率直な質問。
アリサの問い掛けに、教女は目を瞑った。
軽く息を吐き、平静な口調で再び言葉を紡ぐ。
「此度の旅に付き添ってくれた彼女、“マイリア”は神光に包まれた人間なのです」
「神光……?」
「マイリア、少し説明を――」
教女は視線をマイリアと呼ばれた女性に注ぐ。
それを合図と受け取ったか、付き人は教女の言葉を補足した。
「私は遥か遠くの地“サンクタール”という街の出身なのだ。昔は炭鉱で栄えた街だったが、役目を終えた後は街は荒れ果て、多くのならず者が身を寄せる場所に変貌してしまった。言わば犯罪者の溜まり場。どうしようもなく救いのない街だった……」
ゴミ溜め、とマイリアは吐き捨てる。
口調と表現の荒々しさに、彼女のただならない過去が読み取れる。
「けれど、ある日のこと。街が突然大いなる光に包まれたのだ。一瞬にして街が浄化される様を私は確かに目撃した。神の意向を垣間見たのだ」
アリサはコテリと首を傾げるとエルマと顔を見合わせた。
抽象的な話をどう受け取っていいか、判断に窮しているようだ。
「フフ……この子の体験を言葉で言い表すのは少し難しいでしょう。つまりはこの世の神秘を垣間見た、そう思っていただければ結構です。ですが、街が一瞬にして浄化されるという、この子が体験した奇跡はまさに神の思し召しだと考えています」
教女はアリサの手を握る。
「……あなたはとても良い瞳をしていますね。今後も汚れのない心で世の理に触れるのです。さすれば神は教えを与え、あなたに奇跡を齎してくれるでしょう」
そう言って、教女は緩慢な動作で船内を後にする。
そうしてマリバナ船から徐々に距離を取ると、教女の乗った船が夜の闇に紛れるまでそう時間は掛からなかった。
「教女様、今宵もお疲れでしょう。何かお飲み物などは?」
「……」
「教女様?」
「……不思議な人もいたものですね」
「恐れ多くも教女様が慈悲をお与えになった先程の女ですね? 何やら身を隠すような素振りからして、自国に異を唱えた反逆者、或いは追放貴族といったところでしょうか? いずれにしても相当高い地位にあった者と推察しますが……」
「さあ、どうなのでしょう?」
自ら話を振っておきながら、教女はマイリアの話に興味を示さなかった。
マイリアは思わず首を傾げる。
「ああ、ごめんなさい。ワタクシがおもしろいと表現したのは男性の付き人の方です」
「はい?」
マイリアは声を濁す。
得心のいかない彼女の様子に、教女はクスクスと笑う。
「あなたが神光の話を披露している間、例の男性は驚愕と沈痛な顔を浮かべ、あの二人とは全く異なる表情をこちらに向けていました。まるで畏怖の対象を見るかのように……」
「そ、それはどういう意味でしょうか?」
「……さて、彼もまた神の存在を知っているのかもしれません」
教女は遠く水平線を眺めた。
漆黒の空が明けるのはもう少し先のこと――
「……潮時でしょうか。役目も果たしましたし、此度の旅はここまでとしましょう。良いお土産話もできました。帰郷次第、教皇様に謁見を。彼の国にも報告すべきかどうか、判断を仰がねばなりません」
マイリアは「仰せのままに」と一言。
教女はそんな付き人の顔を一瞥した後、再び深紺の瞳を大海原に向けた。
一方、マリバナ船内では上本が一人複雑な顔を浮かべていた。
さっき出会った女性たちの会話。
最後まで抽象的な話に終始していたが、あれはもしかすると……
「上本さん。いかがされましたか?」
「大方腹でも減ったのでしょう」
アリサの気遣い、エルマの嫌み事、その両方に愛想笑いを浮かべると、上本は再び思考する。
本国に帰還した際の報告事項が一つ増えた。
証拠も確証もない伝聞だが、伝えない訳にはいかないだろう。
下手をしたら、日本の外交方針にも影響しかねない、それほどの重大性を秘めた情報かもしれないのだから――
次回「四大均衡」




