第89話:契約の更新と、犬たちの行方
レオンハルト皇子がメイドのキリエに担がれ、ドナドナと連行されていった後。
執務室には、窒息寸前だった空間にようやく酸素が戻ってきたような、穏やかな平穏が訪れた。
「……ふぅ。さて、殿下にも無事にお帰りいただいたことだし、皆も肩の力を抜いてゆっくりしてくれたまえ」
エドワード公爵がソファーの背にもたれかかり、深々と息を吐く。
その言葉を合図に、アレインたちも張り詰めていた緊張をようやく解いた。
「アクシデントはあったが、挨拶も済んだことだしね。リリー、ブルーナ君たちが待ちくたびれているだろう? 会いに行くといい」
「あっ!? そうよ! 貴重なブルーナとヴェルナと遊ぶ時間が、あのバカのせいで減ったじゃない!!」
リリアンが弾かれたように顔を上げた。
その怒りの矛先は、もはやこの場にいない「声のデカい王子」へと向けられている。
「行っておいで。セバス、庭園にお茶とお菓子の用意を」
「御意。最高級のスコーンをご用意いたします」
セバスが慇懃に一礼する。
「早く行くわよ!!」
リリアンが風のように部屋を飛び出し、その後をエリオが「姉さま待ってよー!」と情けない声を上げながら追いかけていく。
「ブルーナちゃんたちも、今頃首を長くして……いえ、翼を広げて待ってるわねぇ。カイト君たちも行きましょう?」
エレナ夫人がふんわりとした笑顔で促すと、カイトも腰を浮かせた。
「あ、はい。じゃあ僕たちも――」
「……悪いが、アレイン君とカイト君は、少し残ってくれるかな?」
エドワード公爵の静かな声に、カイトの動きが止まる。
「えっ? ……あ、はい。……何か?」
「アレイン君とパーティーを組んでいるんだろう? なら君も立派な関係者……要は『お仕事』の話だよ」
ミナとエリナは「お仕事ならお邪魔ですね」と空気を読みエレナ夫人にエスコートされ部屋を後にした。
後に残されたのは、リリアンに激しく揺さぶられた後遺症で未だに目が回っているアレインと、困惑するカイト、そして優雅に微笑むエドワードの三人だけだった。
「……んで、お仕事ってのは? ……やっぱり、さっき言ってた『下僕』の件ですかね?」
アレインがようやく視界を定まらせ口を開く。
「御名答。来年、うちの子供たちは『グレイ回廊』の学園に留学すると話しただろう? 君たちには、そこで『従者兼ボディガード』として潜入してもらいたいんだ」
「拘束時間長い依頼はきついんですけどねぇ……」
アレインが露骨に嫌そうな顔をすると、エドワードは少しだけ表情を曇らせた。
「無理を言っているのは百も承知だよ。……だが、私の不手際でリリーを婚約させてしまった上に、留学で公爵家の目が届かない場所へ行くとなると、心配で夜も眠れないんだ。……お願いできないかな?」
「留学、断念しちゃえばいいじゃないですか」
アレインの指摘に、公爵は苦笑して窓の外を眺めた。
「それが難しいのさ。皇帝陛下が今は『融和政策』を掲げていてね。他国の貴族や殿下も留学する手前、公爵家だけが『いや、うちは箱入りなんで』と断るのは、政治的に厳しいんだよ」
視線の先では、ブルーナを抱えてデレデレになっているリリアンと、ヴェルナを撫でようとして指を噛まれそうになり、情けなく転倒しているエリオの姿があった。それを、エリナたちが爆笑している。
「……短い期間でもいい。リリーたちに害を及ぼせば、即座に『公爵家の狂犬』が喉元に噛みついてくる……。そう周囲に分からせるだけで、十分な牽制になるからね」
「……野良犬、狂犬、挙句の果てには羽虫……。今日は一回も『人間』扱いされてねーわ。……つれーわ」
アレインが天を仰ぐ。
「はっはっは!! では、いっそ『婿殿』と呼ぼうか?」
「婚約してる娘の親父が、堂々と浮気を推奨しないでくださいよ!! 貞操観念どうなってんだこの公爵家!!」
アレインのツッコミを軽く受け流し、エドワードは真剣な眼差しに戻った。
「冗談はさておき。殿下はリリーにご執心で、婚約破棄は現状では不可能に近い。……だが、あのバカ……失礼、殿下の隣を狙う女性は、帝国内部だけでなく他国にも多い。そして、彼女たちにとって最も邪魔な存在は――」
「……リリアンお嬢様、ってことですね」
カイトが言葉を継ぐと、公爵は深く頷いた。
「その通り。……まぁ、殿下が学園で別の女性に目移りしてくれれば、堂々と婚約破棄できて万々歳なんだがね。あの様子じゃ難しいだろうね」
「……いやぁ、でもなぁ……」
渋るアレインの脇腹を、カイトが肘で小突いた。
「……アレイン、これ『条件付き』で受けておけば?」
「ああん? お前、俺が下衆ガミとのデスゲームの真っ最中だって忘れてねーか?」
アレインが小声で唸るが、カイトの目は据わっていた。
「逆だよ。あいつが『乙女ゲー系の主人公』とか変な刺客を送り込んできた時、学園っていう『物語の中心地』に潜り込んでいれば、即座に対応ができるでしょ? 保険として、公爵家の権力を利用しない手はないって」
「……。……確かに。公爵家のバックアップがあれば、物語の改変もやりやすいか……」
アレインの脳内で、急速に算盤が弾かれる。
「契約を『一ヶ月ごとの更新制』にしてもらうんだ。そうすれば、アレインに野暮用ができた時、いつでも契約を一時停止して動けるでしょ?」
「……お前、意外と悪い顔するようになったな、カイト。……よし、その条件で行こう」
話がまとまったのを見計らい、エドワードが声をかける。
「……おや、相談は終わったかね?」
「ええ。条件付きでなら受けますよ。契約は『一ヶ月ごとの更新制』。俺に急な野暮用……用事ができた時は、一旦終了。用が済んだら再契約。……これでいいっすか?」
「構わないよ。君のような自由人に、鎖を巻き付けておくのは野暮だからね。……ありがとう、アレイン君。どうか、リリーたちのことを……よろしく頼むよ」
公爵の真摯な頼みに、アレインは首筋を掻きながら視線を逸らした。
「……まぁ、俺の剣が届く範囲なら、って感じですかね。あんまり期待しないでくださいよ? 見ての通り、俺ぁちゃらんぽらんなんで」
「アレイン!! こういう時くらい、カッコよく『命に代えても守ります!』とか言えないの!?」
カイトの抗議に、アレインは鼻で笑った。
「わりぃなカイト。俺ぁ『できねーこと』と『綺麗事』は言わねぇ主義なんだわ」
「アレイン……ダメな時と良い時の落差が激しすぎだよ……」
「ふふふ……はっはっは!! それでこそアレイン君だよ。簡単に『任せてください』なんて出任せを言う人間より、よっぽど信用できる。……よろしく頼むね?」
アレインは、ほんの一瞬だけ真面目な顔をして、小さく頷いた。
「さあ、仕事の話は終わりだ。リリーたちの遊び相手に戻ってくれるかな?」
「……それも結局、仕事じゃないっすか……」
「それはそれで、別途報酬を払っているだろう?」
「ヘイヘイ。……それじゃ、わがままお嬢様に振り回されに行ってきますかねー」
アレインがダルそうに部屋を出ていく。
カイトが慌てて頭を下げ、「ちょっと待ってよ! 公爵様、失礼します!」と後を追いかけていった。




