第88話:黄金の嵐の去り際と、遅れてきた静寂
レオンハルトの「自分にだけ都合のいい美しき初恋の記憶」が語り終えられた執務室。
当の本人は、やり遂げたと言わんばかりに両手を大きく広げ、天井に向かって高笑いを響かせていた。
「ハッハッハ!! どうだ諸君、これが俺とリリーを結ぶ『運命の赤い鎖』だ!! 全帝国が泣いたであろう!?」
「……忘れなさい! 今すぐ、その腐った脳みそからデリートしなさい!! できないなら、今すぐここで死ねぇぇぇ!!」
顔面から火が出るほど真っ赤になったリリアンの怒りは、なぜか、彼女のセリフに度々登場する「ただの平民」へと向けられた。
「やめろ!! 俺の貴重な脳細胞がシェイクされてんだろーが!! 記憶どころか、今日の朝飯の内容まで飛ぶだろうが!!」
「そのまま何もかも忘れるのよ!! 全部消えろ!!」
白目を剥きかけるアレインと、羞恥心で暴走するリリアン。
その光景を遠巻きに見ながら、カイトは引き気味に乾いた笑いを漏らした。
「あはは……。……なんか、とんでもない地雷を踏んじゃったみたいだね」
「いや、カイト君ナイスだよ。アレインと殿下の『決闘』が始まらなかっただけマシ。……アレインの脳震盪くらい、安い犠牲よ」
ミナがビシッと親指を立ててカイトを称賛する。
「……何がナイスなんですか。結局、この女ったらしがまた一人、純真な乙女をたらし込んでたことが判明したじゃないですか!! ギルティ! 私の部屋で愛の禁固刑に処します!!」
エリナがさらっと恐ろしい監禁計画を匂わせながら、ギラギラとした目をアレインに向ける。
「アレイン君、本当にモテモテねぇ! 毎日が修羅場で、青春してて楽しそうね、うふふ♪」
そして、このカオス空間で唯一、純粋に楽しんでいるエレナ夫人がコロコロと笑った。
混沌を極める執務室に、エドワード公爵が「パンッ!」と乾いた音で手を叩いた。
「いやぁ、殿下。実に『個性的』な面白い話を聞けて、楽しかったですよ。……では、名残惜しいが、ちょうど『お迎え』も来たことだし、そろそろお引き取り願おうかな」
公爵がそう言った、まさにそのタイミングを見計らったかのように、重厚な扉がノックされる。
静かに入ってきたのは、黒髪に眼鏡をかけ、鋭い眼光を放つ長身のメイド――先ほどのレオンハルトの回想にも登場した女性、キリエだった。
「ちわー。……殿下の回収、もとい……お迎えに上がりました」
「おお! キリエ殿、お待ちしておりましたぞ!!」
入り口で待機していたセバスが、救世主でも見るような目でキリエを迎える。
「うちのボンクラ……あぁ失礼、殿下がご迷惑をおかけしました、エドワード様」
「いや、中々楽しかったよ。……些か、騒々しかったがね」
エドワード公爵が鷹揚に頷くと、レオンハルトが不満げに声を上げた。
「キリエ!! 何の用だ!! お前も、俺とリリーの『愛の叙事詩』の続きが聞きたくて来たのか!? ハッハッハ!!」
「はぁ……。これ以上、殿下が暴走して、マジで婚約破棄にならないように、尻拭いに来たんですよ、殿下」
キリエは一切の感情を排した能面のような笑顔で特大の溜息を吐く。
「そんなことあるわけないだろう!! リリーも俺に惚れている!! キリエも冗談が上手くなったな!! ガハハ!!」
「……いや、今すぐ破棄の手続きをしても、私は一向に構わないんだけどね?」
エドワード公爵がチクリと刺すが、キリエは首を横に振った。
「いえいえ。一応、婚約破棄の条件には十八歳を迎えて、お二人が結婚を合意しなければとありますので。そう簡単には、解除できませんねぇ」
「……『お互いに不貞(浮気)がなければ』という条件もあったはずだが?」
「リリアン様も、まだ自分の気持ちに素直になれていないようですから。……現状、まだセーフですねぇ」
キリエがチラッと視線を向けると、リリアンはビクッと肩を揺らして顔を逸らした。
「リリー、そういうことらしい。……いっそ素直になったらどうだい? その方が、話が早くてお父様も助かるんだがね」
「お父様!? 何を言ってるんですか!? べ……別に、私が誰を好きとか一言も言ってないんだけど!?」
顔を真っ赤にして早口で捲し立てるリリアンを見て、キリエは淡々と結論づける。
「……ということですので、セーフです、エドワード様」
「ふむ……。リリーの恋も、中々に前途多難だねぇ」
公爵が肩をすくめると、キリエは再びレオンハルトに向き直った。
「では殿下、帰りましょうか。城では皇帝陛下が、殿下の『アポなし外出』について、陛下直々の説教を用意してお待ちですよ」
「何を言っている!! まだまだ俺とリリーの恋物語を語り足りないぞ!! 離せキリエ!! 俺の情熱は誰にも止められん!!」
「……私はいつでも殿下の味方ですがね。これ以上、公衆の面前で醜態を晒せば殿下の価値も暴落しますので。……さっさと回収させてもらいますよ」
言い終わるや否や、キリエの右手が動いた。
目にも止まらぬ速さで、レオンハルトの首筋へ鋭い手刀が振り下ろされる――。
だが。
「ふん!! 甘いわキリエ!! その動き、もう百回は見ておるわ!! 今日の俺は、一味違うぞ!!」
レオンハルトはそれを腕で見事にガードしてみせた。
皇子としての確かな成長の証。
「ほー。……少しは成長されましたね、殿下。……ですが、まだ脇が甘いですねぇ」
手刀を防がれたその瞬間、流れるような動作で放たれたキリエの左拳が、吸い込まれるようにレオンハルトの鳩尾へと深く突き刺さった。
ドスッ! という重い衝撃音が執務室に響く。
「……ぐ、おっ……!!? ……い、いい……左を持ってるじゃないか……キリエ……」
レオンハルトは、満足げな笑みを浮かべたまま、膝から崩れ落ちて見事に気絶した。
キリエは倒れた皇子を手慣れた様子で掴むと、ひょいと肩に担ぎ上げる。
「では。……殿下が多大なる精神的苦痛を与えたことをお詫び申し上げます。失礼します」
キリエは優雅に一礼し、自国の皇子をまるで米俵のように担いだまま、颯爽と執務室から退室していった。
嵐のように現れ、嵐のように去っていく主従であった。
「……ふぅ。……やっと、静かになったね」
扉が閉まった直後、エドワード公爵が自らの耳から『特製の耳栓』をスッと取り外し、深く息を吐いた。
「……最初から付けてたんかい!! 卑怯だぞ公爵様!!」
激しいツッコミを入れるアレインの横で、未だ顔が赤いリリアンはギリッと歯を食いしばっていた。
「…………。……アイツ、本当にいつか殺す……」
「……なんだか、すごい一日だったね」
カイトが疲労困憊の顔で遠い目をする。
公爵家を襲った「金ピカの嵐」がようやく去り、執務室には平穏が戻ってきた。
だが、来年の帝国への留学、そしてリリアンとの「下僕契約(仮)」を巡るアレインの受難は、まだ始まったばかりであった――。




