第97話 イナが選んだ場所
イナは俺の話を聞き終えると、両手を広げた。
それから、半分まで狭める。
魚を置いていた女の真似だ。
「そう。そのくらい」
俺が頷くと、また笑った。
全部は伝わらなくても、ここだけは伝わったらしい。
火が低くなるころ、俺たちは話を終えた。
横になると、足の裏がじんとした。
誰かが薪を動かした。
その音を聞きながら、今夜は火を確かめることもなく眠った。
*
翌朝、イナに呼ばれた。
足元には、食べ物を入れた二つの籠がある。
川辺で働く人たちへ持っていくらしい。
イナと話していた女が、そばの子どもを抱き上げた。泣いている。
女が何か言うと、イナは子どもの背へ一度手を置いた。
それから俺を見た。
「サエ。行く?」
俺は頷いた。
「川。誰、いる?」
イナが知っている男の名を二つ挙げた。
昨日、トワの話を聞いていた顔が浮かぶ。
俺は重いほうの籠を持ち上げた。
包みが寄らないよう、背へ収める。
イナも自分の籠を背負った。
「行こう」
イナは俺が立つのを待ち、先に歩き出した。
*
川の音が近づくと、イナが足を止めた。
細い道の端が崩れていた。
下は水ではない。
砂利と石の間へ、崩れた土が落ちている。
崩れた端には、細い亀裂が残っていた。
俺は足を出す前に、上側を見た。
幹を二本回り込めば、少し広いところへ出られそうだった。
「上?」
イナは頷く。
二人で荷を下ろした。
イナが上を確かめる。低い枝の間を通るには、籠を身体から離さなければならない。
川辺から、石のぶつかる音が聞こえた。
呼べば誰か来るだろう。
だが、上を通すだけなら、二人でできそうだった。
俺は空身で斜面を上がり、幹の向こうで足場を確かめた。
籠を置く場所もある。
「ここ。渡す」
両手を出した。
イナは軽いほうの籠を持ち上げる。
縁と底を支え、重さを引き受ける。
「いい」
イナが手を離す。
二つとも受け取ってから、道を空けた。
イナが上がり、幹の向こうを示す。
緩やかな下りが続いていた。
荷を取り直し、後についていく。
*
川辺では、男たちが石を動かしていた。
浅い流れへ枝を並べ、一人が手で押さえている。
こちらに気づいた男が声を上げた。
イナが答え、籠を下ろす。
俺は水のかからない石の上へ、食べ物の包みを並べた。
男たちが手を洗い、集まってくる。
一人が、来た道を指して何か尋ねた。
崩れたところのことらしい。
俺は頷き、上側を通ったと伝えた。
幹を回り、荷を渡す。
イナが横から短く補う。
男は俺たちを見比べて頷き、食べ物を取った。
食べ物を渡し終え、俺も石に腰を下ろした。
男が話しながら、俺へ魚を一匹差し出した。
小さかった。
受け取ろうとした途端、尾が跳ねた。
両手を低くして受け、そのまま男の示した器へ入れた。
男が笑った。
「手渡すなら、先に言ってくれ」
俺も笑った。
イナは魚を覗いてから、俺の顔を見た。
目が合うと、器の中を指す。
受け取れ、ということだったらしい。
男がそこへ、もう二匹入れた。
*
帰りの籠には、魚が入った。
葉を敷き、上にもかぶせる。
男は俺の籠へ入れてから、イナのほうへも手を伸ばした。
イナは一度首を振った。
男は聞かずに置く。
何か言い合って、最後はイナが笑った。
俺は二つの籠を見た。
「空で帰れると思ったのに」
イナが俺の肩を軽く叩き、自分の籠を背負った。
*
崩れた場所では、イナが先に上がった。
俺が下から渡し、彼女が受け取る。
今度は、言葉がほとんど要らなかった。
俺が最後の籠を背負うと、イナは集落へ続く道ではなく、少し横へ歩いた。
「こっち」
川のほうへ向かう。
俺は空を見た。
まだ昼前だった。
足元を確かめ、後を追った。
*
木々の間を抜けると、平らな石があった。
川岸からは少し高い。
向こうには、さっきまでいた男たちが小さく見えた。
イナは荷を下ろし、石の端へ座った。
俺にも隣を示す。
腰を下ろすと、風が首筋を通った。
汗で湿ったところが、少し冷える。
「いいな、ここ」
イナは川を見ていた。
籠を動かす気配はない。
俺も背の紐を外し、しばらく水を眺めた。
男が一人、腰を伸ばしている。
隣の男が何か言い、そちらへ顔を向けた。
声はここまで届かなかった。
イナが静かに話し始めた。
初めは、川辺の男たちのことかと思った。
だが、聞こえたのは俺の名だった。
「サエ。行く。前」
彼女は自分を指した。
「話す」
俺はイナを見る。
イナは俺を見ていた。
「行く前。イナに、話す?」
確かめると、頷いた。
「どこ。いつ。話す」
イナは言い足した。
前は、俺が何も言わないうちに荷をまとめてくれた。
分かってくれたのではなく、黙っている俺を見て、考えてくれたのだ。
「話す」
俺は答えた。
「行く前。俺から」
イナは頷き、川へ目を戻した。
俺も同じほうを向いたが、もう一度、彼女を呼んだ。
「イナ」
こちらを見る。
俺は座っている石を軽く叩いた。
「帰る。また、ここ?」
イナは石を見た。
それから、俺の隣へ掌を置く。
「ここ」
俺は頷いた。
ノエにも、また会いに行くと言った。
その日を決めるときは、イナにも自分から話そう。
ここで待ってもらうために、都合のいい返事だけをするわけにはいかなかった。
俺は足元に置いた籠を見る。
「今日。帰る。魚、持つ」
今の予定まで言うと、イナが笑った。
イナは足元の籠へ手を伸ばし、めくれた葉をかぶせ直した。
*
立とうとすると、イナが俺の袖をつまんだ。
ほんの少しだけ。
振り向く。
「まだ」
彼女は座ったままだった。
俺は空を見てから、腰を下ろし直した。
袖から指が離れる。
イナがこちらを見た。
「サエ。話す」
昨日の続きを聞きたいのかと思った。
俺は少し考え、首を振る。
「今日は、イナ」
彼女のほうへ掌を向けた。
「ここ。よく、来る?」
イナは頷いた。
自分を指し、石の上へ指を一本立てる。
「一人」
俺は彼女の座っているところを見た。
川辺で働く人は見える。けれど、声は届かない。
「いつも、一人?」
イナは少し考え、首を振った。
俺を指す。
「今日、二人」
風が吹いて、頬にかかった髪が揺れた。
イナがそれを耳の後ろへ戻す。
俺は返事を探し、結局、頷いた。
「また、二人」
イナの目が、少し細くなった。
袖をつまんでいた手が石の上へ戻る。
二人の手の間には、指二本ぶんほどの隙間があった。
俺はそのまま座っていた。
川のほうで男が手を上げた。
イナも手を上げる。
だが、立とうとはしなかった。
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