第96話 話したかったこと
イナは、すぐにはこちらへ来なかった。
干していた魚を外す手が、一度止まった。
俺と、その後ろのトワを確かめる。
手にした魚を火から離れたところへ置き、歩いてきた。
俺は集落の入口で荷を下ろした。
最後の坂を上ったばかりで、息がまだ落ち着かない。
途中では、話す順番を何度も考えた。
今は、目の前にいる。
「イナ」
彼女が目の前で止まる。
俺は顔を上げた。
「帰った」
イナは俺の顔を見て、短く息を吐いた。
「サエ」
それから何か言った。
聞き取れたのは、俺の名と、帰る、という音だった。
「うん」
頷くと、イナも頷いた。
*
人が集まってきた。
トワへ声がかかり、向こうで見たことを話し始める。
俺にも、傷者のことを尋ねる声が向いた。
「ユイ。家。エナも」
少し歩けることも伝えた。
ハルの肩は、まだ重いものを持てない。
そこまで話すと、トワが横から言葉を足した。
補ってくれる言葉を聞き、俺も頷く。
イナもそばにいた。
話を聞きながら、俺が下ろした荷へ目を向ける。
俺は自分で持ち上げた。
「これ、置く。あと、話す」
彼女の返事を待つ。
イナは火のそばを示した。それから、干してある残りの魚を指した。
先に、あれを片づけるらしい。
「分かった」
俺は荷を置きに行った。
置いた荷から手を離し、肩を回す。
いつも寝ていた場所に、見慣れた屋根の影が落ちていた。
*
火のそばへ戻ると、少年がいた。
前に、俺が縄の結び方を見せた子だ。
こちらへ走ってきて、何か言う。
速い。
「待て。一つずつ」
少年は俺の言葉を待たず、地面へ座った。
短い紐を結び、輪を強く引いてみせた。
それは、前にも見た。
俺が教えたものとは、少し違う結び方だった。
今度は結び目へ細い棒を差し、固く締まった紐を少しずつ押し戻す。
できた隙間から端を抜くと、あっさりほどけた。
少年が俺を見る。
「……おお」
思わず声が出た。
少年の口元が大きく緩む。
そこへ、イナが戻ってきた。
少年の手元を見て、何か言う。
少年が言い返した。
二人とも笑っている。
イナは少年の棒を取り、自分の胸を指した。
少年がすぐに言い返す。
結び目を指す少年と、棒を掲げるイナ。
二人の手柄らしい。
「何があったんだ?」
俺が隣を空けると、イナは腰を下ろした。
紐を両手で引き、大きく息を吐く真似をする。
俺は笑った。
「あいつが、結んだ?」
イナは頷く。
何か話しながら、包みを開く仕草をした。中を見たいのに開かない。横にいた少年を呼ぶ。
少年も開けられない。
そこで、棒の出番だったらしい。
言葉が途切れても、イナの真似を見ると続きが分かった。
得意になって胸を張る。
結び目が開かず、急に黙る。
「そんな顔、したのか」
俺が笑うと、イナは少し離れたところへ目をやった。
少年がこちらを見ていた。
聞こえていたらしい。
何か叫ぶ。
イナが答え、少年は紐を掲げた。
今は開く、と言っているようだった。
俺は棒を受け取り、少年が結び直した紐をほどいてみた。
締まったところへ棒を入れ、端を押し戻す。
開いた。
少年へ返すと、満足そうに受け取った。
「これなら、運んでる途中ではほどけないな」
少年は頷いた。言葉より、俺が結び目を引いた手を見ていたのだろう。
棒も紐も持って、向こうへ走っていく。
イナはその背中を見送り、もう一度小さく笑った。
こんなふうに長く笑う顔を、久しぶりに見た気がした。
*
やがて、イナが俺の荷を指した。
今度はこちらの番だった。
ユイが、旅立つ前に何度も木の実を確かめたこと。
子どもに渡すと、同じ傷を指で探したこと。
俺は掌に小さな丸を作り、包みを開く真似をした。
イナは途中で問い返した。
問いの言葉が分からず首を振ると、ゆっくり言い直してくれた。
今度は答えられた。
イナの問いに追いつくたび、話が少しずつ長くなった。
ハルの話では、子どもの籠を取ろうとして、自分の手を引っ込める真似をした。
イナが俺を見る。
「サエ?」
「俺、持つ。でも、ハル、教える」
言葉が足りず、自分でも笑った。
イナは何か言った。
俺の伸ばしかけた手を真似して、笑う。
「ここでも、やってたか」
イナは答えず、笑った。
俺はそのまま、ノエの話もした。
彼女と採集の道を歩いたこと。
川が見えるところまで行って、そこで戻ったこと。
木の板は荷の中に置いたままにした。
今は地形を説明するより、一緒に歩いた人の話をしたかった。
「ノエ。道、知る」
イナはその名を繰り返した。
俺は頷いた。
出発前の夕方、手を握り返されたことが浮かぶ。
それをどう伝えればいいのかは、まだ分からなかった。
俺は次の言葉を探した。
「俺。また、行く。……まだ、いつ、分からない」
イナの目が、俺から荷へ動いた。
俺は手を膝へ戻した。
「今日、ここ」
荷は、まだ片づけ終わっていない。
けれど、今すぐ立つ用事もなかった。
イナは俺を見直した。
やがて、そばの器をこちらへ寄せる。
「食べる」
中には、火を通した魚があった。
俺は受け取り、礼を言った。
*
食べ始めると、急に腹が減っていたことを思い出した。
話している間は、気づかなかった。
イナは自分の分を取り、隣で食べた。
子どもが一人、俺の膝の近くへ座る。
向こうではトワが何か話し、男たちが声を上げて笑っていた。
俺の話ではないことを祈った。
イナも声のしたほうへ目を向けた。
俺を見ると、なぜか笑った。
確かめるのは、明日でもいい。
俺は魚の骨を外した。
食べ終えたころ、火のそばへ戻る人が増えた。
置いた荷を片づけようと、腰を上げる。
イナの声で止まった。
「まだ、話す?」
俺は振り向いた。
イナは自分の隣へ置いていた器を動かした。
一人ぶん、座る場所が空く。
俺は荷を持って戻り、邪魔にならないところへ置いた。
腰を下ろす。
「話す」
イナがこちらへ身体を向けた。
「サエ。話す。増えた」
両手の間を少し広げる。
「……俺?」
彼女は頷いた。
前は、分からないことを黙って見ている時間が長かった。
今も分からないことばかりだが、今日はずいぶん口を動かした。
「たくさん、悪い?」
言ってから、余計なことを尋ねたと思った。
イナはすぐ首を振った。
自分を指し、俺のほうへ顔を向ける。
「聞く」
俺は、膝に置いた手を開いた。
少し前まで、何かできることを探して、この手を持て余していた。
今は、身振りに使ってばかりいる。
イナが次の言葉を待っていた。
「じゃあ、魚の話」
俺は両腕を大きく広げた。
途中で止め、半分まで戻す。
イナが首をかしげた。
「最初は、このくらい空くと思ったんだ」
通じないところは、ゆっくり話せばよかった。
イナはもう、少し笑い始めていた。
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