第95話 帰る前に
「帰る」
そう言うと、ノエの手が止まった。
朝の火のそばだった。
向こうの集落へ続く道を示す。
「明日。トワと、帰る」
ノエは俺の顔を見た。
それから、そばに置いた荷を見る。
昨夜、トワと話した。
ハルたちは家へ着いた。持ち帰るものも届けた。
昨日見た尾根の先は気になるが、ここでの用事はいったん済んだ。
イナたちにも、無事に戻ったことを自分の口で伝えたかった。
ノエの手元には、食べ物を包みかけた葉があった。
開いたまま、しばらく動かなかった。
やがて端を折り込み、俺へ差し出した。
受け取ろうとする。
その前に、ノエが尋ねた。
「また、来る?」
*
俺は頷いた。
「来る」
川のほうへ手を向ける。
「道。まだ、見る」
ノエは包みを膝へ戻した。
俺が示した川には目を向けず、こちらを見ている。
何か、答えを間違えたらしい。
「……ノエ?」
彼女は自分の胸へ手を置いた。
「ノエ」
それから、俺へ。
「サエ。また、来る?」
今度は、川を指さなかった。
俺も手を下ろした。
火にかけた器から、湯気が上がった。
ノエは返事を待っている。
俺は頭の中で、使える言葉を探した。
今度は、伝えたいことから外れないように。
「来る」
もう一度言う。
今度はノエを見たまま。
「ノエ。会う。俺、来る」
会う、と口にしてから、俺は自分の胸にも手を当てた。
言われたから頷いているだけだと思われたくなかった。
ノエの口元が動いた。
笑いかけて、いったん唇を結ぶ。
それから、俺の手へ包みを載せた。
「ノエも」
短い返事を、頭の中でもう一度聞いた。
ノエは俺の手が包みを支えるまで待ち、指を離した。
目は、そらさなかった。
*
食べ始めると、ノエも隣で器を持った。
俺が顔を上げるたび、目が合った。
三度目には、二人とも少し笑った。
子どもが来て、ノエの膝に手をつく。
俺の包みを見て、何か尋ねた。
ノエが答える。
子どもは道を指し、ユイの名前を言った。
「そっちじゃない」
俺は別の向きを示した。
子どもの眉が寄る。
昨日、出かける前にも説明した。
この男は、あちこち行くわりに、肝心なところへは行かない。
そんな顔に見えた。
「イナ。いる。俺、帰る」
子どもはその名を繰り返し、知らない相手だというようにノエを見た。
ノエが短く答える。
全部は分からなかったが、俺の名前と、来た道を示す仕草があった。
子どもは俺の隣へ座った。
食べ物を取ってから、もう一度ユイの名を言う。
俺は頷いた。
会いたい相手がいる、というところまでは同じだった。
*
昼のうちに、返すものを返した。
借りていた器を洗い、使った寝床を整える。
トワのそばで荷をまとめ、互いに紐を引いて確かめた。
俺の結び目は緩まなかった。
トワの荷は、片側へ寄っていた。示すと、彼は中の包みを動かし、もう一度こちらへ向ける。
俺は引き、頷いた。
木の板は、予備の葉を重ねて荷の内側へ入れた。
明日は、もう知っているところまで戻る。
帰り道を全部、一人で歩けるわけではない。けれど、何も分からなかったときとは違う。
イナに話したい。
ハルが座ったまま、子どもに籠の直し方を教えていたこと。
ユイが木の実を託したこと。
思い出すと、話の順番まで決めたくなった。
使える言葉のほうは、まだ足りないというのに。
*
夕方、ノエと荷に入れる食べ物を分けた。
ノエが取り分け、俺が葉で包む。
一つ目を荷の上へ置き、次の葉を広げた。
手が触れた。
どちらも、すぐには引かなかった。
葉の端を二人で押さえたまま、次の手が出ない。
紐はすぐそこにあった。
ノエが先に口を開いた。
「いつ?」
俺は顔を上げた。
ノエは俺を指し、それから、自分のいる場所を指した。
また来る日。
「まだ……分からない」
正直に答えた。
向こうの様子も聞かずに、何日後と決めることはできなかった。
ノエは黙って頷いた。
ノエの指が動いた。
葉の端を折り、包みを閉じる。
俺は紐を取る前に、その手へ触れた。
ノエが俺を見る。
「会う。ノエ」
朝と同じ言葉を、もう一度使った。
「俺、来たい」
そこだけは、覚えた言葉が出てこなかった。
ノエは耳を傾けた。
「キタイ?」
俺の日本語の、最後の音を真似した。
まだ意味は分からないはずだった。
俺は少し笑い、知っている言葉へ戻った。
「ノエ。会う。また」
ノエの手を、軽く握った。
その指が、俺の指の間へ入った。
握り返された。
俺の親指が、彼女の手の甲へ触れた。
ノエは手を引かなかった。
膝の前に、まだ紐をかけていない包みが一つ残っていた。
*
翌朝、子どもは眠っていた。
ノエは入口にいた。
俺が荷を背負うのを見ても、今朝は手を出さなかった。
自分で紐を引き、肩へ収める。
外ではトワが待っていた。
挨拶をして歩き出すと、ノエもついてきた。
家の前までかと思った。
薪の積まれた場所を過ぎても、隣にいた。
先日、並んで歩いた木々の手前で、足が止まる。
トワは少し先へ進んだ。
俺も止まった。
ノエは俺の顔を見ていた。
昨夜の手の温かさを思い出し、俺から口を開いた。
「また、来る」
ノエが頷く。
「サエ。来る」
それから、一歩近づいた。
俺の手を取った。
昨夜と同じように、一度だけ握る。
俺も握り返した。
ノエが笑った。
指が離れる。
俺は道へ向き直った。
足元のくぼみを避け、トワを追う。
木々に入る前に振り返ると、ノエはまだ立っていた。
手を上げる。
向こうも上げた。
トワは道の先で待っていた。
追いつくと歩き出す。その横へ並んだ。
「イナ」
その名前を口にすると、トワがこちらを見た。
「俺、話す。たくさん」
トワが頷いた。
それから、俺の顔を見て何か言った。
聞き返すと、口の端を上げ、俺が広げかけた両手を示す。
荷を背負っているのに、もう話が始まっていたらしい。
「……続きは、着いてからにする」
俺は紐を握り直し、前を向いた。
イナの顔を見たら、最初は何と言おう。
それだけは、迷わず言えそうだった。
帰った、と。
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