第94話 ノエの道
ノエが急にしゃがんだ。
俺も足を止め、木々の向こうへ目を凝らした。
何か見えたのか。
膝を折りかけたところで、ノエが草の間から何かを摘んだ。
小さな実だった。
二つ、三つと籠へ入れ、こちらを見上げる。
「……いや。何か見つけたのかと思って」
見つけてはいた。
食べるほうを。
ノエは俺の荷から出た木の板を見た。それから手にした実を掲げ、口へ運ぶ真似をした。
昨日も聞いた。
採るものがある。
「分かってる。そっちも」
俺は板から手を離し、籠の脇へしゃがんだ。
*
摘むのは、ノエに任せた。
同じように見えるものを勝手に混ぜるほど、もう自分を信用していない。
代わりに、渡されたものを葉の上へまとめる。
ノエは一か所で全部採らなかった。
少し離れたところへ移り、枝の下をのぞく。そこでまた幾つか摘む。
籠はまだ軽い。
俺が残った実を示すと、ノエは一つ摘み、表面を指でこすった。柔らかく潰れたところを見せ、地面へ置く。
俺は受け取った実を葉で包み、籠の底へ入れた。
立ち上がると、ノエが俺の肩越しへ腕を伸ばした。
近い。
少し身を引くと、袖に絡んでいた細い蔓が張った。
ノエは俺の腕を軽く押さえて蔓を外すと、それを脇へ押しやった。
袖には、小さな引きつれが残っていた。
助けられたのだ。
そう気づいたときには、もう背中を向けていた。
「……ありがとう」
少し遅れて、背中へ言った。
*
道は、俺が思っていた向きから少しずつ外れた。
川のほうへ下りると思っていたのに、ノエは斜面の横を進む。
低い枝の下をくぐる。露出した根は上から踏まず、脇へ足を置く。
後ろを確かめるときだけ足を止め、俺が追いつくと、また進む。
集落で籠を抱えている姿は、何度も見ている。
今日は、迷わず進むその後ろ姿を、何度も見てしまう。
日陰でノエが籠を下ろした。
俺も追いつき、腰を下ろす。
「今日は、早いな」
ノエは俺の足を見てから、水を飲んだ。
昨日の真似を思い出し、俺は何も言わずに水を取った。
*
目印の木は、思っていたより大きかった。
幹が途中で折れ、太い枝が斜面へ倒れ込んでいる。
ノエがその根元を叩いた。
昨日、トワと話していた名前を言う。
ここか。
俺は荷を下ろし、木々の向こうへ目を凝らした。
見えない。
枝も葉も、下から幾重にも重なっていた。
立つ場所を変えると、遠くに白いものがちらついた。
水面だろうか。
もう半歩。
枝が邪魔だった。
俺は身体を横へずらし、倒れた枝の先を見た。
その下は、少し開けている。
あそこまで下りれば、見えるかもしれない。
「少し、下」
指した先を、ノエは見なかった。
俺を見た。
「ここ」
根元を指す。
「うん。でも、あそこなら——」
言いかけて、手が止まった。
ノエは籠を下ろしていた。
俺が動いても、ついてこない。
下りた先から見えるかどうかも、戻りやすいかどうかも、確かめてはいなかった。
それなのに、「少し」と言えば済む気になっていた。
「……ここまで、だったな」
足を戻した。
荷を置き直すと、ノエもその横へ籠を寄せた。
*
下りられないなら、ここから見えるものだけでも確かめよう。
木の板を引き出した。
以前、川沿いから歩いた線。昨日、高い道から見た水面。
その間を、まだ空けてある。
今いる場所も、正確には書けない。
俺は幹の反対側を示した。
「ここ。見る?」
ノエが立ち上がり、先に回った。
倒れた枝を避け、斜面に沿って数歩。ほとんど下らずに立てる場所があった。
ノエが止まったところから見ると、葉の隙間に水が見えた。
細く、短い光。
その右にも、もう一つ。
俺は板へ目を落とした。
昨日なら、この二つを一本の線で結んだかもしれない。
顔を上げる。
二つの光の間に、低い尾根が張り出していた。
木の幹だけでなく、根元の地面まで見える。
「あれ……」
俺が二つの水面の間を指で結ぶと、ノエは首を振った。
目の前の斜面から、張り出した土地へ掌を動かす。
あちらへ続いているのは、地面のほうだった。
向こう側で水がつながっているかは、ここからでは分からない。
ただ、二つの光をそのまま結ぶと、今見えている尾根を横切ってしまう。
水沿いに行けば着ける、とは限らない。
俺は板に書く前から、その道を頭の中で歩いていた。
木の板の余白へ、見えた水面を二本の短い線で残した。
前から描いてある川へは、つながない。
ノエが手元をのぞいた。
俺は二本の線の間を指し、首を振った。
「まだ。分からない」
ノエは頷いた。
それから、俺の持った炭の欠片を指した。
渡すと、ノエは炭を指先で転がした。
板の端へ短い線を試してから、二本の線の間に山形をつける。
俺はその印と、目の前の尾根を見比べた。
「これ。ここ」
ノエが頷く。
炭を返す前に、ノエは山形の片側を少し延ばした。
俺が頷くと、指についた黒い粉を払った。
俺一人なら、描かなかった線だった。
*
戻る支度をしたノエが、軽い籠を背負った。
まだ、実は底にしか入っていない。
俺は板をしまう手を止めた。
朝、採っていたものの名を言ってみる。
ノエが振り向く。
籠を指した。
「まだ。採る?」
ノエは道の先を見た。
少し考え、頷く。
俺も板をしまった。
さっきは木々の隙間ばかり見ていた。
今度は、ノエの手元を見ながら歩いた。
枝を押さえると、ノエが下をくぐった。
一度通り過ぎかけて、足を戻す。
葉の陰に、朝と同じ実があった。
俺が葉を両手で広げると、その上へ実が落ちてきた。
一つが転がり、俺の膝の間に入った。
慌てて押さえる。
ノエが笑った。
「待って。潰してない」
拾って見せ、葉へ戻す。
ノエは次を渡す前に、俺の膝の間をのぞいた。
「もうない」
差し出された次の実は、今度こそ葉の真ん中で受け止めた。
*
葉の包みが三つになったところで、ノエが手を止めた。
籠には、まだ入る。
けれど、先へは行かない。
空を確かめ、来た道を指した。
俺も荷を取った。
「戻る」
ノエが頷く。
葉の包みを一つ、俺に差し出した。
両手で受け取る。
自分の荷へ入れようとすると、ノエが口を開きかけた。
俺は手を止めた。
下には、木の板が入っている。
板を荷の脇へ差し直す。畳んだ葉を底へ敷き、包みを置いた。
ノエは残りの二包みを籠へ収めた。
荷紐を締め直して顔を上げると、まだそばにいた。
俺は荷を軽く叩く。
それでようやく、二人とも歩き出した。
*
集落へ戻ると、まだ明るかった。
子どもがこちらへ走ってくる。
ノエの前で止まり、籠をのぞいた。
それから俺のほうへ来る。
荷から包みを出すと、顔を上げた。
「ノエ」
俺は採る仕草をした。
次に、自分を指す。
「運ぶ」
子どもは包みを抱えようとした。
少し大きすぎた。
俺が下から支え、女のところまで一緒に運ぶ。
ノエは先に話をしていた。
子どもを見てくれていた女が包みを開き、中を確かめる。
幾つかの実を取り分けた。
ノエが頷く。
俺は空になった手を払い、木の板を取り出した。
トワが来た。
まず、俺たち二人を見る。
次に、荷から出した三つの包み。
俺は板の端を示した。
二つの水面と、その間の山形。
ノエが横から説明する。
トワはしばらく聞いていた。やがて地面へしゃがみ、板の横に指で線を引き始めた。
俺もしゃがみ、トワの手元をのぞき込んだ。
横から、ノエが俺の袖へ触れた。
振り向く。
器を一つ持っていた。
水だった。
「……水、忘れてた」
受け取ると、ノエも腰を下ろした。
俺は板を二人の間へ置く。
ノエの描いた、小さな山形があった。
トワは地面の線をそのまま伸ばさず、山形に沿って指を曲げた。
その先で止め、ノエへ何か尋ねる。
ノエは首を振った。
俺は水を一口飲み、板をトワにも見える向きへ置き直した。
トワが俺を見る。
俺は山形の手前を指し、折れた木の名を言ってみた。
少し違ったらしい。ノエに直される。
言い直すと、今度は二人とも頷いた。
もう一度、その場所へ指を置く。
折れた木。そこから横へ数歩。
言葉が足りないところは、手で補った。
トワがノエへ目を向ける。
ノエが頷いた。
俺は続きを話した。ノエは隣で、器を両手に持って聞いていた。
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