第93話 次は、私も
二本の線を引いたところで、ノエの指が入った。
俺が左へ伸ばした線を、途中で曲げる。
「……そっち?」
ノエは頷いた。
今朝の分かれ道。張り出した根。その上の、曲がった木。
そこまでは伝わったらしい。ノエが直したのは、その先だった。
ノエは二本の線の間に、指で短い筋をつけた。傍らの細枝を拾い、その先に置く。
それから自分を指した。
「ノエ。行く」
枝を拾う仕草。
採りに行く場所なのか。
俺は分かれ道を一つ覚えたばかりだった。
ノエは、その横にも行くらしい。
「……俺、少し得意になってたんだけどな」
ノエが何か言った。
聞き取れたのは、「サエ」と「少し」。
「それは分かってる」
俺が指をわずかに開くと、ノエも同じくらい開いた。
笑っている。
少しの大きさまで、確かめられてしまった。
*
俺は川のつもりで、長い線を一本引いた。
その近くに、今日、水面を見た場所を小石で示す。
前に歩いた道と、今日の道。
どこまで近づいているのか、まだ分からない。
線を伸ばせば、簡単につながる。
その間を、まだ歩いてはいない。
ノエは小石を見たあと、川の線の途中を指した。
さっき置いた細枝から、そこまで指を動かす。
「水」
頷きかけて、止めた。
「ここ。ノエ、行く?」
ノエは首を横に振り、細枝の場所を叩いた。
知っているのは、ここまでらしい。
俺も、川まで伸ばしかけた線を途中で止めた。
ノエが線の途切れたところへ指を置いた。
「見る?」
俺を見る。
「ああ。見る」
今すぐではない。
足の裏が痛い。荷を結ぶ指も、さっきから鈍い。
それに、歩いた道を一度、トワと確かめたい。
俺は小石を動かさずに、手を膝へ戻した。
するとノエが、自分の胸に掌を当てた。
「ノエ。行く」
さっきと同じ言葉だった。
今度は、俺と自分を交互に指した。
俺の手が止まった。
「一緒に?」
ノエは頷いた。
*
嬉しかった。
返事をしかけて、子どものほうを見た。
少し離れたところで、あの子が女のそばにしゃがんでいる。小さな籠から何かを取り出し、女へ渡していた。
ノエが俺の視線を追い、何か説明した。
長かった。
「……待って。そこ、分からない」
ノエは子どもと、その隣の女を指した。
預ける、ということだろうか。
女はまだ、こちらを見ていなかった。
ノエは立ち上がり、そちらへ行った。
俺は座ったまま、二人が話すのを見ていた。
女は籠の中を示し、何か頼むように話した。
ノエが答える。二人とも頷いた。
戻ってきたノエは、自分のそばに置いていた繊維の束を取った。
端を膝で押さえ、手を動かし始める。
俺を見る。
「明日」
それから、昼の太陽を示す仕草をした。
話はついたらしい。
ただし、今夜やることが増えたのかもしれない。
俺が束を見ていると、ノエは膝の前へ少し寄せた。
長いものと短いものに分けている。
手元を見てから、一本取った。
これは、長いほう。
隣へ置くと、ノエはそのまま束へ足した。
もう一本取る。
今度も直されなかった。
それでようやく、俺も腰を落ち着けた。
しばらく、二人の手だけが動いていた。
ノエが先に口を開いた。
「サエ。明日。戻る?」
さっきは一緒に行くと言った。
今度は、戻るほうを聞いている。
俺は集落を指した。
「明るい。戻る」
ノエは俺の顔を見ていた。頷くと、また束へ手を伸ばした。
*
トワが戻ってきたとき、俺たちの間には、分け終えた束が二つできていた。
俺の隣へしゃがみ、地面の線を見る。
ノエが話し始める。
明日のことを伝えているのだろう。
トワの指が地面へ伸びた。
細枝の場所。
そこから少し先を指し、川の線へ届く前に止める。
ノエが何か答えた。
声に、迷いはなかった。
二人が知っている目印の名があるらしい。俺には聞き覚えのない音だった。
トワはそこの土に横線を引き、俺を見た。
「ここ。戻る」
俺は横線を指す。
次に、こちらの集落。
「ここまで。戻る」
トワは頷いた。
川まで下りるのではない。
ノエの知っている採集の道から、こちら側の地形を見る。
俺は川へ向かう線を消し、横線から集落まで指で戻った。
トワは今度はノエへ何か言った。
ノエが俺の足元を見た。
それから、少し笑った。
嫌な予感がした。
「何を教えた」
トワは答えず、立ち上がった。
ノエは歩く真似をしたあと、両手を膝について、大きく息を吐いた。
「……休む。ちゃんと休む」
二人とも納得した顔をした。
その真似は、少し似ていた。
腹が立つくらいに。
*
日が落ちる前に、ノエの手元の束は片づいた。
俺が分けたものも、そのまま片づけられた。
子どもが戻ってきて、ノエの膝へ寄る。
手には、あの木の実があった。
ノエが何か話すと、子どもは俺を見た。
次に、地面の道。
そして、ユイの名前を言った。
「明日は、違う」
俺は首を振った。
あちらの集落へ行くには、もっと支度がいる。
ノエも短く説明した。
子どもは木の実を握り直し、俺たちの間へ座った。
俺は地面の小石を端へ寄せた。
子どもの膝が触れ、線の一部が消えた。
描き直そうとして、やめる。
明日、歩いてから木の板に足せばいい。
イナの顔が、ふと浮かんだ。
荷をまとめてくれた手も。
あちらへ戻ったら、話したいことが増えた。
ただ無事だと伝えるだけなら、すぐ終わる。
ノエに話したくらい伝えるには、きっと時間がかかる。
ノエが子どもの髪についた繊維を取り、火へ投げ入れた。
細いものは、一瞬で燃えた。
俺は残りの束を踏まない場所へ動かした。
*
翌朝、起きて最初に確かめたのは、足だった。
地面を踏む。
痛みは残っているが、昨日のようではない。
水と、少しの食べ物を用意した。
道を描いた木の板は、荷の外側へ差した。
昨日の地面の線は、もう半分消えていた。
外へ出ると、ノエはもう籠を背負っていた。
子どもは、昨日話していた女のそばにいる。
何か言い、ノエへ手を伸ばした。
ノエはしゃがんでその手を握る。短く返事をし、顔を近づけた。
子どもが手を離す。
それから俺を見た。
「サエ」
次の言葉は、分かった。
「戻る」
俺は頷いた。
「明るい。戻る」
ノエも頷き、立ち上がった。
歩き出しかけて、俺の荷から出た木の板に目を留める。
指先で触れ、こちらを見た。
俺は板を少し引き出した。
「道。書く」
ノエは分かったというように頷いた。
そして自分の籠を示し、食べる仕草をした。
採るものもある。
俺は板をしまい直した。
道ばかり見ていては、ついていけないらしい。
ノエが先に立つ。
木々の手前で振り向き、俺が来るのを待った。
その横へ並ぼうとして、地面のくぼみを避ける。
ノエはそれを見て、少し笑った。
「そこは、もう覚えた」
ノエが籠の横を叩いた。
中はまだ空いている。
俺は自分を指し、運ぶ仕草をした。
ノエは首を振る。
自分の籠は、自分で持つらしい。
そのまま先へ行くかと思うと、道の脇へ少し寄った。
俺が追いつくと、歩き出す。
二人で並べるのは、木々に入るまでの、ほんの短いところだった。
俺は木の板に触れかけた手を下ろし、ノエの歩幅に足を合わせた。
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