第92話 帰りに持ったもの
朝、ユイは俺の顔より先に、荷を見た。
エナの手を握って立ったまま、上に入れた包みを指す。
俺はしゃがみ、葉を少し開いた。
木の実が一つ。
殻についた傷も、昨日のままだった。
殻を見せると、ユイの指が下りた。
葉を閉じ、食べ物の包みとは離して戻す。
腹が減っても、これだけは食えない。
外では、もう人が動いていた。
棚の前にいるのは、魚を干していた女だった。別の女が空の籠を持ってくる。二人は何か話し、籠を置く場所を変えた。
俺に声はかからなかった。
トワが先に歩き出す。
俺も荷紐を引き直し、その後を追った。
ハルは寝床のそばに座っていた。膝の前では、小さな籠を抱えた子どもが、何か熱心に話している。
俺に気づくと、ハルは顎を少し上げた。
「行く」
道のほうを示す。
ハルは頷いた。子どもから籠を受け取りかけ、肩を動かして、やめる。代わりに自分の膝の前を指した。
子どもがそこへ籠を置いた。
俺は口を開きかけて、閉じた。
もう、そばで見ている人がいる。
振り返ると、ユイがまだこちらを見ていた。
俺は荷の上を軽く叩いた。
「持っていく」
ユイの返事は聞き取れなかった。
エナがその背に手を添える。
俺は一度手を上げ、トワを追った。
*
帰りの道は、来たときより静かだった。
担ぐ人も、担がれる人もいない。
トワの足音と、俺の息だけが続く。
そのせいか、歩く速さも違った。
しばらくして、前の背中が止まった。
トワが振り向く。
俺は息を抑え、平気な顔で追いついた。
トワは何も言わず、荷を下ろした。
「……もう少し早くても、よかったぞ」
俺も腰を下ろした。
息を整えていると、トワが水を飲んだ。喉が動く。飲み終えると、首の後ろを掌でこすった。
こいつも疲れるのだ。
当たり前のことを、時々忘れる。
俺は水を飲み、残りを確かめた。
荷へ伸ばしかけた手を止める。
木の実は、朝から三度も確かめている。
会社で送信済みのメールを何度も開いたときと同じだ。見直したところで、中身は変わらない。
*
道が分かれたところで、足を止めた。
右は、下っている。
左は、木の根が斜面に張り出していた。
その上に、幹の曲がった木がある。
昨日、老人が地面に描いていた形を思い出した。
行きにも、ここを通った。
担ぎ手が足を置く場所を探して、少し止まった場所だ。
俺は左を示した。
トワを見る。
トワは俺の示した先を見て、頷いた。
先へ行け、というように手を動かす。
俺が前に出た。
張り出した根をまたぎ、曲がった幹の脇を抜ける。少し先で道が細くなり、そこで足を止めた。
振り返ると、トワはすぐ後ろにいた。
今度は道を譲り、後ろにつく。
一人で帰れるわけではない。
それでも、さっきの分かれ道なら、次も選べそうだった。
*
昼を過ぎて、木々の間から川が見えた。
足が止まった。
遠くで水面が白く光っている。
見覚えのある曲がり方だった。
以前、トワたちと歩いた場所が、あの先にある。
元の世界へ戻る手がかりを探して、水のなくなったところまで行った。
あのときは、川沿いから見ていた。
今は、高いところにいる。
間にある木々も、斜面も見える。
トワが戻ってきた。
俺は川を指し、それから、あのとき歩いた側を手でなぞった。
「前。俺たち、歩いた」
トワが川を見る。
少し考え、俺の指より先を示した。
そうか。
思っていたより、向こうなのか。
俺は示された場所を見直した。
離れて見ると、知っているつもりの場所まで違って見えた。
俺は掌に指で線を引いた。
道を描いた木の板を思い出してもらえるかは、分からない。
「帰る。書く」
それから、川を指した。
「ここ。前の道」
トワはしばらく俺を見ていた。
それから、俺たちの帰る方向を指した。
「ああ。今日は帰る」
頷くと、ようやく歩き出した。
俺も川に背を向けた。
家にある木の板へ、今日の道を書き足してみよう。
線がつながるかどうかは、そのとき確かめればいい。
今は、持って帰るものがある。
*
煙の匂いがしたのは、足の裏が痛み始めたころだった。
トワの歩き方が変わる。
迷わず、少し狭い木々の間へ入った。
その先で、犬が吠えた。
顔を上げる。
木の向こうを、子どもが一人走っていった。
見覚えのある屋根。
薪の積まれた場所。
いつもなら避けて通る、地面のくぼみまで見えた。
帰ってきた。
そう思った途端、荷が重くなった。
あと少しなのに、身体はずいぶん勝手だった。
誰かがトワを呼んだ。
別の声が返る。
その向こうで、ノエが顔を上げた。
手には、植物の繊維を束ねたものを持っていた。
俺たちを見る。
二人の後ろへも目を向ける。
トワが短く何か言うと、ノエは頷いた。手元の束を傍らへ置き、立ち上がる。
歩いてくる途中で、頬にかかった髪を手の甲で払った。
額に、細い汗が光っていた。
目が合う。
何か言おうとしていたのに、一瞬、忘れた。
ノエが俺の荷を見る。
俺も見た。
そうだった。
「持ってきた」
背から下ろそうとする。
紐が引っかかった。
少し引く。
抜けない。
ノエが横へ回り、俺の肘を軽く下げた。
するりと外れた。
「……最後まで世話になるな」
地面へ荷を置く。
ノエは荷の前にしゃがみ、俺の顔をもう一度見た。
今度は、ちゃんと言えた。
「帰った」
ノエの口元が、少し緩んだ。
*
子どもが来た。
ノエの横へ寄り、俺の荷をのぞき込む。
まず俺を見る。
次にトワ。
それから、後ろの道。
「ユイ」
その名前だけは、はっきり聞こえた。
俺は荷の上の包みを取った。
子どもの前で、葉を開く。
木の実が一つ。
子どもはすぐには取らなかった。
俺の顔を見てから、指を伸ばす。
持ち上げ、殻を回した。
傷のところで指が止まった。
そして、また道のほうを見た。
「ユイ。向こう」
俺は来た方角を示した。
「歩く。少し」
指を二本、地面の上で動かす。
ノエが何か尋ねた。
途中までは分かったが、返事の仕方が分からない。
トワを見ると、代わりに答えてくれた。
ノエは黙って聞いていた。
子どもも、木の実を握ったまま動かなかった。
話が終わると、ノエが子どもの肩に手を置いた。
子どもはその手を見上げ、それから俺に何か言った。
俺は聞き取れず、少し身をかがめた。
子どもは言い直した。最後に、ユイの名前だけ分かった。
「……ごめん。まだ、分からない」
首を振る。
子どもは考え、握っていた手を開いた。
木の実を俺に見せる。
受け取ろうとすると、すぐに閉じた。
ノエが笑った。
俺も手を引っ込めた。
どうやら、返すつもりではなかったらしい。
子どもはもう一度だけ木の実を見て、大事そうに持って走っていった。
走りながら、一度だけ手を開いて、また握る。
俺はそれを見届け、空になった葉を畳んだ。
ユイがあれほど荷を確かめたわけが、少し分かった気がした。
*
持ち帰ったものを渡し、水を飲んだ。
トワは呼ばれて、別の火のほうへ行った。
俺は空になった荷の口を結ぼうとした。
指がうまく動かなかった。
引っ張ると、余計なところが締まる。
諦めて置いた。
ノエが戻ってきた。
手にしていた器を、俺のそばへ置く。
それから、俺の手元を見た。
結び直してくれるのかと思ったが、紐には触らなかった。
代わりに、少し隣の地面を掌で払う。
俺を見る。
座れ、ということらしかった。
腰を下ろすと、ノエも座った。
子どもを呼び、短く何か言う。
子どもは木の実を握っていないほうの手で、小さな籠を取った。近くにいる女のところへ持っていく。
ノエはそれを見届けてから、俺へ向き直った。
「ハル」
その名前に頷く。
「座る。籠。子ども」
膝の前に籠があるつもりで、手を動かした。
ノエが聞いている。
「エナ。ユイ。食べる。……ユイ、少し歩く」
言いたいことに比べて、使える言葉が少なすぎた。
俺は少し考え、ハルの真似をした。
籠を取ろうとして、肩を止める。
すぐに膝の前を指す。
ノエの眉が寄りかけたので、慌てて続けた。
子どもが籠を置く真似。
その中の枝を、一本だけ選ぶ真似。
今度は、口元が緩んだ。
「そう。それで、ずっと教えてる」
分からない言葉まで出てしまった。
それでも、ノエは顔をそらさなかった。
俺が黙ると、自分の胸ではなく、俺を指した。
「サエ」
そして、向こうへ続く道を指す。
俺の話も、ということだろうか。
「俺?」
ノエが頷く。
棚のことなら、トワが話したほうが早い。
そう思って向こうを見たが、トワは別の男と話していた。
ノエは、俺の返事を待っている。
魚を動かせると思ったことから、話してみるか。
しばらく考えて、俺は両腕を大きく広げた。
次に、その半分まで狭める。
ノエが首をかしげた。
「魚」
干してある魚を指す。
もう一度、腕を広げる。
途中で腕を止め、渋い顔で半分まで戻す。
ノエが吹き出した。
ノエも片腕を広げ、俺の前で半分に狭めてみせた。
「そう。半分」
俺が頷くと、もう一度笑った。
急いで次の話へ移ろうとすると、ノエが器を俺のほうへ寄せた。
飲んでからでいいらしい。
俺は器を持った。
横で、ノエが膝を抱えて座り直した。
まだ行かないらしい。
ユイのことも、ハルのことも伝えた。持ち帰ったものも、渡し終えた。
俺は水を一口飲んだ。
それから、自分の胸を指す。
「サエ。道、分かる。少し」
今朝の分かれ道を話そうと、地面に二本の線を引いた。
ノエが、俺の手元をのぞき込んだ。
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