第88話 運ばなくていい
朝、ハルが籠を持ち上げた。
俺は食べかけのものを置いた。
「待て」
彼が振り返る。
俺は昨日赤くなっていた肩を指し、籠へ手を伸ばした。
ハルは離さなかった。
小さな籠だった。
底には、短い材が数本入っている。
彼が何か言った。
俺がもう一度手を出すと、籠が横へ動いた。
昨日の子どもが、反対側をつかんでいた。
ハルが手を離す。
子どもは籠を抱え、走っていった。
俺の手だけが残った。
ハルはそれを見て、短く言った。
笑ってはいなかった。
*
トワは昨夜来た女たちと話していた。
足元には空の籠が二つ。
女の一人が家々の向こうを示す。
「見る」
俺が言うと、彼女は頷いた。
ハルは肩をゆっくり回した。
途中で止め、女へ何か答える。
先に歩き出した。
俺も空の籠へ手を掛けたが、女が背負うところだった。
手を離す。
トワが俺の背中を軽く押した。
そのまま来い、ということらしい。
俺は手ぶらで後に続いた。
*
行き先は近かった。
森の手前に、低く屋根を掛けた場所があった。
斜面に沿って木が渡してあり、その上へ籠が並んでいる。
口には葉を重ねてあった。
女が一つを開ける。
昨夜見た木の実が詰まっていた。
ハルは入口へ腰を下ろした。
差し出された実を一つ割る。
中を見て、女へ渡した。
彼女は唇を結んだ。
俺は籠の下へ目を向けた。
敷いてある葉の端が、濃い色になっていた。
女が奥の籠を引く。
縁が横木へ当たった。
ハルが立ち、そちらへ手を伸ばす。
俺は先に籠をつかんだ。
「俺が」
肩を指す。
そのまま引こうとすると、ハルに手首を押さえられた。
彼は籠の底を指した。
俺はそちらへ手を入れる。
女が縁を押さえ、トワが奥から持ち上げた。
三人で下ろす。
籠の下の葉は、木に貼りついて残った。
ハルはその端をつまんだ。
持ち上げる。
途中で破れ、黒い跡が現れた。
彼が伸ばしたかった手は、そこだった。
*
ハルは指先の葉を見てから、俺を見た。
何か言う。
俺は肩を指した。
「痛い」
彼は頷いた。
次に、籠を指す。
自分の胸へ指を戻し、首を振る。
葉。
濡れた木。
屋根の奥。
「見る」
それから、入口へ座り直した。
重い籠を運ぶつもりではなかった。
俺が代わろうとする前に、ハルは自分で分けていたのだ。
俺は膝に置いた手を開いた。
「……悪かった」
ハルは濡れた葉を差し出した。
俺が受け取ると、裏側を示す。
黒くなったところへ指が止まった。
俺も顔を近づけた。
湿った匂いがした。
*
女たちが籠の中身を出し始めた。
ハルが声を掛ける。
上からすくった分を、手前の葉へ置かせた。
次に真ん中。
底の近く。
別々に並べる。
俺も手を入れた。
底の実は、掌に冷たかった。
細かなものが殻へ貼りついている。
女が一つ取り、表面を擦った。
中を割る。
ハルへ見せたあと、離れた葉へ置いた。
いつの間にかエナも来ていた。
ユイは来ていない。
俺が家のほうを見ると、彼女は子どもの名を言い、ここへ案内してくれた女の名を添えた。
預けてきたらしい。
エナは並んだ実を見た。
一つ割る。
女たちと話してから、別の実を取った。
俺が同じ形のものを集めようとすると、手を止められた。
彼女は俺の選んだ二つを割った。
中の色が違う。
一つは元へ戻す。
もう一つは、離れた葉へ。
俺は残りを、そのまま置いた。
外から見ただけでは分からないものもある。
*
口を覆っていた葉の内側にも、湿りがあった。
女がそれを広げ、屋根へ目を向ける。
ハルに何か話した。
トワが外へ回ったので、俺もついていった。
斜面側の土に、細い筋が残っていた。
屋根の下へ続いている。
トワがしゃがむ。
木を支える足元へ触れ、土を少し崩した。
下はまだ湿っていた。
彼は中へ戻り、女を呼んだ。
女も同じところへ指を入れる。
口を開きかけて、閉じた。
ハルの声がした。
女は振り返り、二本の指を立てた。
雨の日を数えたのか。
ここへ置いてからの日数なのか。
俺には分からなかった。
中へ戻ると、籠のあった横木にも、同じような跡があった。
俺は濡れた葉を、その下へ置いた。
どこから外したものか、後で分からなくならないように。
*
女が空の籠を持ってきた。
出した実を移そうとする。
ハルが止めた。
両手を低く広げる。
女は籠を下ろした。
別の女と話し、外へ出ていく。
戻ってきたときには、敷物を抱えていた。
それを日当たりのある場所へ広げる。
エナが湿った葉を足で踏まないよう、脇へ寄せた。
ハルも入口から出てきた。
乾いたところへ座る。
俺は思わず顔を上げたが、手は出さなかった。
女たちは少量ずつ実を運んだ。
場所ごとに分けたまま、重ならないよう広げていく。
ハルが風の通るほうへ目を向ける。
女の一人が敷物の端を少しずらした。
これで傷んだものまで食べられるようになるとは、誰も言わなかった。
割って確かめたものは、別の葉に残っていた。
*
最初の籠が空になった。
底の編み目には、黒い土が入り込んでいる。
トワが外へ運んだ。
女が濡れた敷き葉を外す。
俺は二つ目の籠へ向き直った。
口を開ける前に、葉を三枚並べた。
手前。
その奥。
さらに奥。
ハルがこちらを見る。
俺は上の実を少し取り、手前へ置いた。
まだ下の分とは混ぜない。
ハルは何も言わず、女へ顔を戻した。
そのまま続けていいらしい。
俺はもう一度すくった。
同じところから出したものでも、手触りが違う。
迷ったものは置かず、エナへ渡した。
彼女が割る。
中を見せる。
俺はそれを、示された葉へ運んだ。
*
日が上がると、年老いた男が来た。
広げた実と、空になった籠を見る。
女が話した。
男は一つ取り、割られた中を確かめた。
殻を指に挟んだまま、しばらく動かなかった。
女へ何か聞く。
彼女は短く答えた。
男はもう一度、籠の底へ目を向けた。
昨夜、魚を置いていった人だった。
俺に食べ物の包みを渡した人でもある。
ハルは座ったまま説明した。
男は聞き終えると、別の屋根を指した。
女がそちらを見る。
返事がすぐには出なかった。
トワが立ち上がる。
俺も顔を向けた。
そこにも、口を葉で覆った籠が並んでいた。
同じような置き方だった。
男が自分の胸を指し、そちらへ歩き始めた。
女の一人がついていく。
ハルは肩を動かし、顔をしかめた。
俺は彼を見た。
彼は立たずに、空いた葉を顎で示した。
「サエ」
俺は何枚か取った。
今調べた場所へ、残りを一枚ずつ置いていく。
濡れたもの。
上から出したもの。
まだ確かめていないもの。
ハルが葉の位置を一か所直した。
俺は頷き、トワを追った。
次の屋根の前で、男が立ち止まっていた。
口を覆う葉へ手を掛ける。
俺はその横に、空の葉を広げた。
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