第87話 今日は、ここで
ハルがひと口かじる間、男は敷物の端を持ったままだった。
火がはぜた。
俺は食べ物を膝へ戻した。
男が何か言う。
ハルは飲み込んでから答えた。
知っている音が混じっていた。
明日。
肩へ手を置き、もう一度言う。
明日なら直す、ということか。
俺が敷物へ目を向けると、トワが腕に触れた。
首を振る。
片手を頬へ当て、身体を横へ傾けた。
眠る。
「ああ……寝床か」
トワは敷物を指した。
俺は編み目を見直した。
穴がある。
けれど、男が差し出した側には、人が横になれるだけの幅が残っていた。
ハルは修理を断ったのではないらしい。
男は敷物を下ろし、ほどけた端を内側へ折った。
*
男が立ち上がり、家のほうへ声を掛けた。
昼間ハルの荷を運んだ女が、それを持って出てくる。
男へ渡す。
ハルは自分の横を叩いた。
荷が置かれる。
彼はそれを引き寄せ、エナとユイの寝る獣皮のそばへ寄せた。
「今日。ここ」
俺にも拾える音だった。
男の目が屋根へ向く。
ハルは座っている地面を、もう一度叩いた。
男が答える。
少し長かった。
ハルは最後まで聞いてから、首を振った。
エナも話に加わった。
ユイの足元を直し、ハルの荷をそばへ置き直す。
男は二人を見ていた。
それから、敷物を少し離れたところへ広げる。
自分で座った。
足を伸ばし、空いた側を叩いた。
ハルは動かなかった。
*
俺は膝の上で手を握った。
ハルは肩を痛めている。
長い道を歩いてきたばかりだ。
今日はここで休ませればいい。
そう思ってから、トワを見た。
彼は食べていた。
エナも声を荒らげていない。
俺だけが、男の次の言葉を待っていた。
男がハルへ話す。
ハルは自分の肩へ触れ、短く答えた。
男はしばらく黙っていた。
やがて頷く。
敷物から立ち、畳んだ。
近くの女へ何か言う。
女が魚の入った器を持ってきた。
男はそれをハルの前へ置かせた。
ハルが顔を上げる。
何か言ったが、男は返事をせず、敷物を抱えて家へ戻った。
俺の膝を、トワが軽く叩いた。
食べ物を指す。
俺はようやく口へ運んだ。
冷めていた。
*
ハルは魚を少し取り、エナの器へ入れた。
彼女が何か言う。
彼はもう一切れ、自分で食べた。
俺は二人のそばで水を飲んだ。
ハルが屋根の下へ行かない理由は、まだ分からない。
男とどんな関係なのかも。
さっき聞こえた「明日」だけが、頭に残っていた。
明日、移る。
明日、また決める。
その後の音が拾えなければ、どちらにもなる。
俺は器を見た。
自分の分も、もう少なかった。
空の器を持って立つと、若い女が手招きした。
彼女も水を汲みに行くらしい。
トワへ行き先を示す。
彼は頷き、足を伸ばした。
*
家々の間を歩いた。
魚を干す枝。
木の実を砕く石。
壁際へ寄せられた薪。
女は洗い物を抱えた子どもへ声を掛けた。
子どもが道を空ける。
俺の脚を見上げ、女へ何か聞いた。
「サエ」
女が答えた。
子どもも同じ音を言う。
俺が返事をすると、器を抱え直し、走っていった。
道の曲がり角から、あの屋根が見えた。
男が入口の荷を動かしていた。
中の女に何か言われ、もう少し奥へ寄せる。
空いた床へ、さっきの敷物を置いた。
ほどけた端を壁へ向ける。
女が一度持ち上げ、下に残っていた小枝を拾った。
男が床を手で払う。
二人で敷き直した。
俺たちが通り過ぎると、男が顔を上げた。
俺は頭を下げた。
彼は器を見て、水場へ顎を向けた。
*
水は斜面の下から流れていた。
女が汲み終わるのを待ち、同じ場所へ器を置いた。
持って帰れる量で止める。
女の後について戻った。
屋根の前で呼び止められた。
男が小さな包みを持っていた。
乾いた葉を開く。
中には、さらに二つの包みがある。
食べ物の匂いがした。
「ハル」
男が言った。
俺は水を下ろし、包みを受け取った。
男が話す。
ゆっくりだった。
だが、分かるのはハルの名だけだった。
男が俺の顔を見る。
返事を待っている。
俺は首を振った。
「分からない」
覚えた音で言った。
男は口を閉じた。
もう一度言うのかと思った。
彼は包みの片方へ指を置いた。
ハル。
もう一方を指し、エナの名を言った。
ユイの名も。
俺は同じように指し、三人の名を返した。
男が頷く。
今度は間違えずに渡せそうだった。
俺は包みを片腕へ抱え、水の器を持ち上げた。
*
ハルは横になっていた。
包みを見ると、肘をついて身体を起こした。
俺は男の家を指した。
近いほうをハルへ。
もう一つをエナへ渡す。
ハルは葉を開いた。
中身へ指を伸ばしかけ、顔を近づける。
少し匂いをかいだ。
エナを呼ぶ。
彼女も覗き、二人で短く話した。
ハルが一つ口へ入れる。
ゆっくり噛んだ。
俺はそばへ水を置いた。
彼はもう一つ取りかけたが、指を止めた。
残りを包み直す。
荷の上へ置いた。
エナは自分の包みから少し取り分け、眠るユイの脇へ寄せた。
俺は水汲みで湿った指を、膝の上で乾かしていた。
*
暗くなり始めたころ、男が戻ってきた。
今度は何も持っていない。
ハルの前で止まる。
荷の上の包みへ目を向けた。
ハルが顔を上げ、短く言った。
男が頷く。
立ち去ろうとしたところで、ハルが自分の横へ手を置いた。
「今日。ここ」
男は屋根を指さなかった。
そこへ腰を下ろした。
エナが水を回す。
男は飲み、ハルへ渡す。
ハルが受け取った。
ユイが寝返りを打った。
男がそちらを見る。
獣皮から出かけた足へ手を伸ばし、途中で止めた。
エナが皮を掛け直した。
男は手を膝へ戻した。
ハルも水を飲み、火を見ていた。
*
その後、女が二人来た。
ハルの顔を見ると、一人が笑った。
彼も口元を動かした。
女は葉の包みを地面へ置き、中身を広げた。
木の実だった。
同じ形のものがいくつもある。
潰れたものが一つ。
殻の表面が黒くなったものも混じっていた。
ハルは黒いものを取り、爪で表面を擦った。
女が話す。
彼は一つ割り、中を見た。
エナへ渡す。
彼女は顔へ近づけたあと、別の場所へ置いた。
食べ物の器から離している。
もう一つ。
割る。
今度はハルが、割った中身を女へ見せた。
女の笑いが消えた。
俺も身を寄せた。
葉を開いたときから、湿ったような匂いがしていた。
森で拾ったばかりの匂いとは少し違う。
ハルが何か聞く。
女は二本の指を立て、家々の向こうを指した。
もう一人が言い足す。
手で大きな輪を作った。
籠の大きさだろうか。
俺には、それ以上分からなかった。
ただ、葉の上の数個だけの話ではないらしい。
ハルが肩を押さえた。
女が口を閉じる。
彼は少し考え、トワを見た。
次に俺。
「見る」
その音は分かった。
彼は自分の前の包みを閉じ、空を指した。
「明日」
俺は頷きかけ、手を止めた。
何を見る。
どこまで行く。
俺は木の実を指し、女が示した先へ指を向けた。
同じ音を返す。
「見る?」
ハルが頷いた。
女も頷いた。
男が火へ薪を一本足した。
葉の上には、割られた木の実が二つ残っていた。
俺はそれを、食べ物のそばへ戻さなかった。
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