第86話 籠を待っていた子
年老いた男の腕が下りても、ハルは動かなかった。
俺は預かった荷を持ち直した。
何を言われたのか。
尋ねる言葉を探しているうちに、ユイのほうから声が上がった。
走ってきた子どもが、獣皮の横で止まっていた。
ユイが話す。
子どもも話す。
二人とも相手の返事を待たない。
エナが間へ手を入れ、ユイの足を示した。
子どもは慌てて後ろへ下がった。
男たちが木陰へ棒を下ろす。
後から来た女が、ユイの前へ膝をついた。
頬に触れる。
何か言いかけ、唇を結んだ。
ユイが腕を伸ばした。
女はその身体を抱き寄せた。
さっきまでよく動いていた子どもの口が、女の肩で見えなくなった。
エナは隣に座った。
ユイの足元を支えたまま、女の背中へも片手を置いた。
*
犬が俺の籠へ鼻を近づけた。
身体を引く。
犬も来る。
もう一歩。
まだ来る。
トワの声で、近くの子どもが笑った。
犬を呼ぶ。
俺は籠からはみ出した包みを押し込んだ。
干した魚だった。
「そっちか」
犬が離れると、今度は人の目が気になった。
シャツ。
ズボン。
足元。
最初の集落でも、こうして見られた。
ただ、今日は槍の先を向けられてはいない。
トワがそばで話している。
話を聞きながら頷く者もいれば、少し離れたままの者もいた。
女が一人、俺の腕に掛けた荷へ手を伸ばした。
ハルを見る。
彼が頷いたので渡した。
女は年老いた男の指した屋根へ運んでいった。
ハルはついていかなかった。
ユイのそばへ座り、小さな籠を足元に置く。
俺も自分の籠を下ろした。
肩が軽くなると、ようやくここまで歩いた長さが分かった。
*
ユイの周りに、子どもが増えた。
足元へ寄るたびにエナに止められ、少しずつ横へずれる。
やがて半円になった。
ユイが俺を指した。
子どもたちがこちらを見る。
次に両手を高く上げ、獣皮を叩いた。
昼に、もっと高く持ち上げてほしがった話だろうか。
トワが何か言う。
笑い声が起きた。
一人が立って、俺の前まで来た。
見上げる。
自分の頭へ手を載せ、その手をさらに伸ばす。
届かない。
俺は少し膝を曲げた。
指先が頭へ触れた。
子どもは後ろへ振り返り、何か叫んだ。
ユイが大きく頷く。
俺はゆっくり立ち直った。
座ったままのユイだけが、妙に得意そうだった。
*
エナに呼ばれ、水の器を出した。
底のほうまで減っていた。
そばの女が中を覗き、自分の器から水を足してくれる。
俺は受け取って飲んだ。
冷たかった。
ハルも手を伸ばした。
器を渡すと、エナが彼の肩へ目を向けた。
紐の下に挟んだ皮を外す。
赤くなったところへ触れられ、ハルの顔が歪んだ。
その手を軽く払う。
エナが言い返した。
ハルは水を飲んだ。
聞こえないふりにも見えた。
だが、彼女が布を当て直す間は、動かなかった。
ユイが二人を見ている。
ハルが何か言うと、子どもは短く返事をし、また友達へ向き直った。
俺は空いた器を受け取った。
もう一度、水を入れておいた。
*
年老いた男が来た。
ハルへ声を掛ける。
さっきと同じ屋根を示していた。
ハルは答えた。
男も返す。
大きな声ではない。
それでも、俺は器を置いた。
エナも顔を上げている。
ハルが小さな籠へ手を伸ばしたとき、子どもが一人、そばへ来た。
俺の頭に触った子より、少し年上だった。
籠を見るなり、しゃがみ込む。
ハルへ何か聞いた。
年老いた男が子どもを呼んだ。
子どもは振り向いたが、そのまま座っていた。
ハルが籠を差し出す。
小さな手が底へ回った。
指が裂け目へ入りかける。
ハルが止め、持つ場所を変えてやった。
子どもは籠を膝に載せた。
年老いた男が息を吐く。
ハルへ短く話してから、屋根のほうへ戻っていった。
子どもはもう、籠の内側を覗いていた。
*
籠には乾いた泥が残っていた。
底の片側が擦り減っている。
子どもはそこへ指を置き、ハルに見せた。
ハルが頷く。
縁を押すと、裂けた口が少し開いた。
子どもの顔が近づく。
ハルはその額を指で押し戻した。
俺は隣へしゃがんだ。
彼が束ねた材を一本抜く。
肩が動いた。
さっきの赤い跡を思い出した。
休んだほうがいい。
言おうとしたところで、ハルは材を子どもへ渡した。
自分の手は膝へ戻す。
子どもが裂け目に材を通した。
ハルが首を振る。
抜く。
別のところへ通す。
今度は途中で止まった。
子どもが強く引こうとすると、ハルが手首を押さえた。
先を少し曲げ、通す向きだけ直してやる。
するりと抜けた。
子どもが顔を上げた。
ハルは頷いた。
俺は口を閉じ、そばに落ちた短い材を拾った。
*
作業はゆっくりだった。
一本通す間に、何度も戻った。
子どもが引くたび、籠の底が浮く。
俺は手を伸ばし、底を押さえた。
ハルを見る。
彼はそのまま、子どもの指先へ目を戻した。
材の先が俺の指へ当たる。
少しずらす。
今度は通った。
裂けた口の端が、わずかに寄った。
子どもはそこへ触れ、ハルを見る。
また触る。
ハルが何か言っても、指が戻る。
エナが声を掛けた。
ハルは顔を上げ、頷いた。
残った材を束ねる。
それを籠へ入れ、子どもに渡した。
まだ、裂け目は残っている。
子どもは受け取ると立ち上がった。
籠を持って数歩進む。
振り返る。
ハルへ何か言う。
彼が答えると、今度は走っていった。
ハルは肩を下げ、長く息を吐いた。
俺は立たずに、そばへ水を置いた。
*
日が傾くころ、火の近くへ呼ばれた。
俺たちの荷を運んだ女が、獣皮を広げていた。
ハルもここで休むらしい。
入口で男が指した屋根とは、別の場所だった。
エナが女と話している。
ユイは横になった。
子どもたちはまだそばを離れず、ときどきエナの顔をうかがっていた。
俺も腰を下ろした。
トワは隣で足を伸ばし、目を閉じた。
その膝へ、さっきの子どもがぶつかりかけた。
慌てて止まる。
両手に小さな籠を持っていた。
中には木の実が二つ。
ハルの前へ差し出す。
彼が取ろうとすると、子どもは籠を引いた。
もう片方を指す。
ハルはそちらを取った。
残った一つが、俺の前へ来た。
受け取る。
子どもは空の籠を抱え、また走っていった。
俺は掌の木の実を見た。
ハルも、取ったものを指先で転がしている。
あの男が籠を持ってきたとき、俺はハルの肩ばかり見ていた。
その籠を待っている子がいるとは、思わなかった。
*
食べ物が運ばれてきた。
ユイは目を閉じかけていた。
握った手から、朝もらった木の実が覗いている。
俺は小さな包みを開き、手のそばへ置いた。
ユイは一度だけ俺を見た。
指を開く。
木の実が包みに落ちた。
エナが口を結び、子どもの頭のそばへ置いた。
俺は自分の分を受け取った。
ハルの前にも、食べ物が置かれる。
彼が手を伸ばしたところで、年老いた男が来た。
畳んだ敷物を抱えていた。
女へ何か言い、火のそばへ広げる。
端がほどけ、途中に穴があった。
俺はハルを見た。
男も、ハルへ顔を向ける。
敷物の端を持ち上げ、話し始めた。
ハルは最後まで聞いた。
それから肩へ手を置き、首を振った。
男が言い足す。
ハルはもう一度、首を振った。
俺は膝の上で手を握った。
男が求めているのが、修理なのか、それとも別のことなのか。
まだ分からない。
男が敷物の端を差し出した。
ハルは受け取らなかった。
膝の上の食べ物を取り、男を見たまま、ひと口かじった。
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