第85話 帰る人の足
出発の朝、ユイは自分で入口を越えた。
エナの手につかまり、片足ずつ外へ出る。
数日前、棒と獣皮を持ってきた男が、その前へしゃがんだ。
ユイが両手を伸ばす。
男は脇を支え、用意した獣皮へ座らせた。
トワが反対側の棒を持つ。
エナは、足の下へ入れた皮の厚みを直した。
この数日、ユイの歩ける距離は延びていた。
それでも、森を越える道を全部歩かせるつもりはなかった。
俺は水の器を籠へ収めた。
周りに草を詰め、背負ってみる。
二、三歩。
中で動く音はしなかった。
入口にいたノエが、籠へ目を向けた。
手は伸びてこなかった。
「戻る」
俺が言うと、彼女は頷いた。
昨夜、トワも交えて確かめたことだ。
向こうで泊まること。
帰りに使う道。
戻るまでに必要な食べ物。
分からないところでは手を止め、もう一度尋ねた。
ノエは最後に、籠の横紐を引いた。
緩まない。
そこへ、彼女の子どもが出てきた。
ユイの前で止まり、握っていた手を開く。
小さな木の実が一つ載っていた。
ユイは受け取ると、エナへ見せた。
エナが荷の包みへ入れる。
二人の子どもは、包みが閉じられるまで見ていた。
*
ハルは最後に家を出た。
肩紐の下に、畳んだ皮を挟んでいる。
荷は小さい。
その横へ、裂けた籠が留めてあった。
男が置いていったものだ。
修理に使う細い材も、束ねて添えてある。
ハルは結び目を確かめ、歩き出した。
俺は水の籠を背負い直した。
セトは集落の端にいた。
トワと短く話し、棒の縄を見る。
ユイが声を掛けると、子どもの足元へしゃがんだ。
巻き物を確かめるのかと思った。
だが、皮から垂れた紐を持ち上げ、内側へ収めただけだった。
立ち上がり、道を空ける。
ノエは家の前に残っていた。
子どもの肩へ手を置いている。
俺が振り返ると、もう片方の手を少し上げた。
俺も上げた。
籠は揺れなかった。
*
森へ入ると、足音がよく聞こえた。
棒を持つ二人。
その横のエナ。
俺とハルは後ろだった。
ユイは頭の上を流れていく枝を見ていた。
低い枝の下では、顎を引く。
当たりそうになると、運ぶ男たちより先に声を出した。
そのたびに二人が止まり、ユイは枝を指す。
しばらくすると、トワが何か返した。
子どもが笑う。
次の枝では、声が少し小さくなった。
前に森を歩き始めたころ、俺は足元しか見ていなかった。
今も、根や泥は見る。
ただ、前の人が止まる前に、自分で足を止められることも増えた。
道の先で、男が手を上げた。
棒が下ろされる。
エナがユイの顔を確かめている間に、俺は道の脇へ敷物を広げた。
水を出す。
ハルが来る。
座る前に、器を渡した。
彼は飲んでから、俺の横へ腰を下ろした。
俺はエナに水を渡す。
彼女は受け取り、そのままユイへ向き直った。
誰にも呼ばれずに済んだ。
俺は空いた手で、自分の肩紐を緩めた。
*
運ぶ人が替わった。
トワは掌を腿へ押しつけ、指を伸ばした。
籠を背負う前に、俺は器を差し出した。
彼が飲む。
棒へ目を向けると、トワは俺の籠を指した。
それから、ハル。
ハルは目を閉じて休んでいた。
俺は水をしまった。
次に歩き出したときは、彼のすぐ前へついた。
枝が荷に掛かりそうなら、少し離れた側を通る。
後ろの足音が遠のけば、速さを落とした。
一度、ハルが俺の籠の端をつかんだ。
止まる。
彼は脇へ寄り、根に腰を下ろした。
俺も籠を下ろす。
前のトワが振り返った。
俺は掌を下へ向けた。
待つ。
トワが頷き、前の男へ声を掛けた。
ハルは肩紐を外した。
額に汗が浮いている。
やがて呼吸が落ち着くと、自分で紐を掛け直した。
俺も立った。
*
道は川の音から離れていった。
ハルたちを見つけたときに通った、低い場所ではない。
斜面を回り、木の根が張った高いところを進む。
下には泥の帯が見えた。
倒れた木もある。
先頭の男は下りず、曲がり角の向こうを確かめに行った。
戻ってくる。
短く話す。
トワが先へ回り、棒を持つ二人の足元を見た。
そこで、俺も一度止まった。
ハルが追いつく。
狭いところへ一緒に入らず、前が抜けるのを待った。
ユイは静かになっていた。
エナの手が、皮の縁へ添えられている。
木の間を通り終えると、男が息を吐いた。
俺も、その後から進んだ。
*
昼は、太い木が二本並ぶ場所で休んだ。
男が幹の裏から石を取り、棒の下へ置く。
もう片側には平たい石があった。
獣皮の底が、湿った地面から離れる。
使い慣れた場所なのかもしれない。
ユイは少し歩きたがった。
エナに支えられ、木の根元まで行く。
戻るとき、俺の腰の縄をつかんだ。
俺は食べ物の包みを持ったまま立った。
子どもの歩幅に合わせて、三歩。
獣皮のそばへ戻る。
ユイが座るのを待って、俺も腰を下ろした。
包みを開いたとき、小さな木の実が転がった。
ユイの手が伸びる。
先に拾って渡すと、胸元へ引き寄せた。
ノエの子どもにもらったものだった。
「それは食べないのか」
俺が自分の食べ物を口へ運ぶと、ユイは木の実を握ったまま首を振った。
少しして、包みの奥へしまう。
俺はその場所だけ、上から押さえないように閉じた。
*
ハルが俺を呼んだ。
「サエ」
小さな籠を膝に載せている。
裂けたところではなく、荷へ留める紐が緩んでいた。
俺は籠を支えた。
ハルが結び直す。
腕を伸ばしにくそうだったので、少し持ち上げた。
彼はその位置で紐を引いた。
結び終わる。
俺は手を離した。
ハルは籠を横へ置き、食べ物を一つ取った。
俺の掌へ押す。
「ありがとう」
受け取って食べた。
そばではユイが、運んできた男に何か頼んでいた。
男は首を振る。
エナを見る。
こちらにも断られたらしい。
ユイが俺へ向き直った。
両手を上げる。
さらに、高いところを見る。
男が棒を大きく持ち上げる真似をした。
俺は枝を見上げた。
「もう少し低い乗り物で我慢しよう」
首を振ると、ユイは獣皮へ寝転んだ。
俺まで笑われる側に回されずに済んだ。
*
午後、木々の間から空が見えるようになった。
先頭の男が声を出す。
遠くから返事があった。
少し進むと、薪を背負った女と行き会った。
ユイを見つけるなり、荷を下ろした。
子どもの前へしゃがむ。
頬へ手を添え、何度も話し掛けた。
ユイも答える。
女は笑ってから、ハルへ目を向けた。
声を掛ける。
ハルが返す。
女の視線が、彼の荷へ下がった。
小さな籠で止まる。
口を開きかけたところで、ハルが何か言った。
女は黙って聞いた。
それから頷き、薪を背負い直した。
俺には何も分からなかった。
ただ、ハルは女から目をそらさなかった。
別れ際、女が俺を見る。
男が短く説明した。
「サエ」
その音だけ聞き取れた。
俺が頭を下げると、女は道の先を示した。
ユイが身体を起こそうとした。
エナに肩を押さえられても、顔は前を向いていた。
*
煙の匂いがした。
木々の向こうから、人の声が届く。
乾いたものを叩く音。
犬の鳴く声。
ユイが、誰かの名を呼んだ。
向こうから声が返る。
棒を持つ二人が歩幅を狭め、ゆっくり坂を下りた。
屋根が見えた。
俺は足を止めた。
後ろの足音が、聞こえなくなっていた。
ハルが立っている。
肩紐を握り、屋根を見ていた。
俺は少し戻った。
「休む?」
彼は首を振る。
肩の荷を外し、俺へ差し出した。
受け取る。
思ったより軽かった。
ハルはそこに留めた紐をほどき、小さな籠だけを取った。
俺は残りの荷を片腕に掛けた。
入口のほうから、子どもが走ってくる。
その後ろに女。
年老いた男も、木の間へ姿を見せた。
エナがハルを呼ぶ。
ハルは道を下り始めた。
俺も後ろへ続く。
年老いた男が何か言った。
屋根の一つを指している。
ハルの足が止まった。
男がもう一度、同じ場所を示す。
ハルは小さな籠を持ち直した。
屋根ではなく、男の顔を見た。
短く答える。
男の腕が下りた。
ユイの周りでは、声が弾んでいた。
俺はハルの荷を持ったまま、二人の間へ入らずに待った。
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