第82話 その線の向こう
ノエが木片を回した。
渡り場の印。
その先の高い道。
指は、低地の曲がりで止まった。
エナが横へしゃがむ。
細い枝を一本置いた。
俺が描いた線から、少し外れたところだった。
彼女は両手を水へ入れるように動かした。
洗う仕草。
ノエが尋ねる。
エナは家から平たい籠を持ってきた。
底の編み目が細かい。
ノエは、割った木の実の入った器を寄せた。
エナが少しだけ籠へ移す。
水へ下ろす。
持ち上げる。
本流ではなく、細い流れを使うらしい。
俺は木片の空白を指した。
「知らない」
エナは頷いた。
自分の胸へ手を当てる。
そこは、彼女が知っている。
トワが来た。
図を見て、エナと話す。
空。
家。
俺も顔を上げた。
明るいうちに戻る。
今度は、俺の探し物ではない。
*
翌朝、木の実は少量だけ包まれた。
ノエは大きな籠のほかに、小さな袋も用意した。
どちらも、まだ使い方を決めていないようだった。
俺は木片を荷へ入れた。
エナはユイのそばにいる。
今日はミナとハルが残った。
ユイが母親の手を離すまで、俺たちは外で待つ。
エナが出てきた。
トワが先に歩き出す。
俺は籠を背負い直した。
*
川を渡り、高い道へ入った。
平たい石。
細い溝。
覚えている場所だった。
分かれ目で木片を出す。
一本しか描いていないところに、踏めそうな場所が二つある。
俺は右へ向きかけた。
止まる。
平たい石を回り込んで見た。
端の小さな窪み。
これを見てから、左へ曲がった。
俺が左を示すと、トワは頷いた。
ノエも木片から顔を上げ、石を見た。
線だけでは、歩けない。
俺は分かれ目を覚え直し、木片をしまった。
*
低地が見えるところで、エナが前へ出た。
斜面を回り、小さな谷へ入る。
川の大きな音が遠のいた。
代わりに、細い水の音。
曲がった木の先で、エナが止まった。
籠を下ろす。
石のそばへしゃがんだ。
だが、すぐには水へ手を入れなかった。
周りを見る。
石を見る。
また、周り。
以前使っていた場所は、泥と葉で埋まっていた。
水は手前の溝を通り、横へ抜けている。
エナが棒で葉を少し寄せた。
黒い水がにじむ。
ノエが何か言った。
エナは手を止めた。
石へ掌を置く。
昔の流れを示すように、指を動かした。
次に、目の前の溝。
首を振る。
覚えていたとおりには、使えない。
彼女は棒を置いた。
*
トワが上流を確かめた。
倒れた枝が重なっている。
引けば、水が元の場所へ戻りそうにも見えた。
俺は枝を見た。
トワは触らなかった。
枝の下には土があり、その下にも水がある。
どこまで一緒に動くか分からない。
彼はエナを呼んだ。
二人で流れの脇を見て回る。
ノエは籠を持ち上げた。
今流れている水へ、空のまま下ろす。
傾く。
手を離すと、少しずれた。
ノエは引き上げた。
今度は、小さな袋。
浅い溝へ収まった。
エナが端を押さえる。
ノエは近くの枝へ紐を留めた。
水が袋の周りを抜ける。
二人とも、すぐには中身を入れなかった。
*
しばらく見たあと、木の実を少し移した。
袋を下ろす。
持ち上げる。
編み目と、中身を確かめる。
また下ろす。
俺は大きな籠を脇へ寄せた。
ここでは使わない。
持ってきたものを全部使おうとしないところは、俺よりずっと判断が早かった。
ノエが袋を引き上げる。
エナと話す。
二人は中身を別の葉へ包んだ。
家へ持ち帰って、続きを確かめるらしい。
残りの木の実は、そのままだった。
今日分かったのは、袋を置ける流れがあること。
それが以前の場所と同じように使えるかは、まだ決まっていなかった。
*
エナが籠を背負う。
元の石へ、もう一度目を向けた。
俺も見た。
彼女は道を間違えたわけではない。
覚えていた場所へ、ちゃんと来た。
それでも、水は別のところを流れていた。
俺が川岸へ戻ったときも、地面がなくなっていた。
記憶の場所へ着くことと、記憶の景色を見つけることは違った。
エナが俺を呼ぶ。
高いほうの道を示した。
俺は木片を出した。
今日歩いた曲がりを足す。
彼女が一か所、指で直した。
谷へは、もっと回り込んでいた。
俺は線を引き直す。
使えなくなった古い場所は、小さな印だけ残した。
*
炭の端が折れた。
細い線にしたかったのに、黒い点になる。
指で擦る。
さらに広がった。
ノエが覗いた。
俺の手を見る。
水へ片手を入れ、こちらへ向けた。
洗え。
俺は木片を背中へ隠した。
「こっちは洗わない」
ノエが笑った。
自分の手をもう一度差し出す。
洗うのは俺の指だった。
俺は木片を乾いた石へ置き、手を水へ入れた。
帰り道に黒い指の跡まで残す必要はなかった。
*
帰ると、ノエとエナは試した分を年老いた女へ見せた。
袋。
木の実。
水の流れを示す手。
女は中を確かめ、別の器を用意した。
俺はそばで、木片を広げた。
今日通った道。
泥で埋まった場所。
小さな袋を置いた流れ。
ノエが別の采集する女を呼んだ。
木片を指しながら説明する。
女が分かれ目で尋ねると、ノエは平たい石の形を手で示した。
俺はその脇へ、小さな窪みを描いた。
ノエが頷く。
木片は、歩く者の代わりにはならない。
だが、今日見た変化を、ここに残った者へ示すことはできた。
ハルが縁へ紐を留めた。
籠から落ちないように。
俺は紐を引き、確かめた。
*
夜、ノエが木片を見ていた。
エナも隣に座る。
俺は二人のそばへ腰を下ろした。
エナの指が、今日の谷から最初の印へ戻る。
俺が目を覚ました木。
次に、俺のポケット。
尋ねる声だった。
俺はスマートフォンを出した。
黒い画面へ、火が映る。
エナが木の印をもう一度叩く。
俺は頷いた。
そこで見つかった。
ノエが俺の寝床を指す。
次に、木の印。
俺は首を振った。
ここへ来る前にも、俺には家があった。
だが、川の上流でも下流でもない。
木片の外を指しかけて、止めた。
遠くを指すだけでは、また違う道を教えてもらうことになる。
*
鍵を出した。
掌へ置く。
二人の目が、そちらへ移った。
俺は地面へ四角を描いた。
入口。
鍵を差し、回す仕草。
扉を開ける。
中へ入る。
「家」
覚えた音を言った。
ノエが同じ音を返す。
俺は頷いた。
自分の胸。
鍵。
描いた家。
俺の家。
次に、ここを指した。
柱。
炉。
寝床。
首を振る。
同じではない。
ノエは俺を見る。
エナは鍵を指した。
家のある方向を尋ねているようだった。
俺は掌を開いた。
「知らない」
言ってから、言い直したくなった。
家を知らないわけではない。
帰り方を知らない。
枝で俺と家の間に線を引く。
途中で止める。
続きが描けない。
もう一度。
「知らない」
*
エナが枝を取った。
家の中へ小さな丸を二つ描いた。
俺を見る。
誰かがいるのか。
そういう問いだろうか。
胸が詰まった。
ここへ来てから、人の顔を思い出すときは一人ずつだった。
電話をかける相手。
帰りを気にする相手。
その人たちが今どうしているか、俺は何も知らない。
俺は丸を消さなかった。
自分の胸へ手を当て、家を指す。
頷く。
エナは、しばらく枝を持ったままだった。
ノエが家の丸を指す。
俺が消した道の先へ目を向ける。
俺はスマートフォンを耳へ当てた。
話す。
相手を待つ。
画面を見せる。
黒いまま。
首を振った。
「知らない」
今度は、家の中の丸を指した。
二人とも、すぐには何も言わなかった。
*
火が小さくなった。
ノエが枝を一本足す。
エナは描いた家を見ていた。
やがて、俺へ鍵を差し出す仕草をした。
俺は掌の鍵を持ち上げる。
彼女は頷いた。
道具でも、飾りでもない。
少なくとも、今はそう見てくれていた。
俺は鍵をしまった。
スマートフォンも戻す。
ノエが木片を取り、自分の籠へ入れかけた。
そこで止まる。
最初の木の印を見る。
俺へ木片を差し出した。
俺は受け取った。
彼女たちが使うための道と、俺が探している場所。
同じ木片に描いてあった。
*
俺は今日足した谷の線を指した。
ノエ。
エナ。
二人を指す。
次に、自分。
歩く。
また一緒に行く。
ノエは頷いた。
そのあと、最初の木へ指を置いた。
俺を見る。
俺は同じように頷いた。
こちらも、探す。
エナが木片の端へ指を当てた。
何も描いていないところ。
俺はそこへ線を足さなかった。
家がどこにあるかは、まだ分からない。
ノエは木片を俺の膝へ戻した。
隣へ水の器を置く。
エナが火へ顔を向けた。
俺も座ったまま、水を飲んだ。
描いた家と、その中の二つの丸は、地面に残っていた。
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