第79話 帰る日を決める
ノエが水の器を置いた。
一つ。
もう一つ。
俺は二つを見比べた。
川の向こうで、一晩。
さっきまで地面の線だったものが、急に荷物の重さになった。
トワは上流の印を指した。
年を取った男が頷く。
ウネが俺を見る。
俺は自分の胸へ手を当て、その印を指した。
行きたい。
ウネはすぐには返事をしなかった。
ノエが家から食べ物を持ってきた。
包みを開く。
少し取り分ける。
残りを家へ戻す。
俺は寝床のほうを見た。
ナギとユイがいる。
ハルは、入口で籠を直していた。
俺たちが出ているあいだも、ここでは食べる人がいる。
*
トワが地面へ小石を二つ置いた。
東の空。
一つ目。
眠る仕草。
次に、二つ目。
家を指す。
俺は二つ目の石へ指を置いた。
頷く。
次の日に戻る。
さらに先へ進めそうでも、そのとき決め直すのではない。
ウネの前で、もう一度同じ仕草をした。
ノエが包みへ食べ物を足した。
俺は手を出しかけた。
それでは、家に残る分が減る。
ノエは俺の手を止め、空を指した。
次に、水を流す仕草。
男が短く続ける。
帰るのが遅れることもある。
俺は手を下ろした。
二日分を数えれば二日で帰れる、というものではなかった。
*
翌朝、俺は家の前で材料をまとめていた。
ハルが膝の籠を置く。
俺の肩紐を引き、付け根を確かめた。
昨日、地図を描いているあいだに直してくれたらしい。
俺は縁を握った。
「ありがとう」
ハルが頷く。
その横に、向こうへ返す小さな籠がある。
俺はそれを見た。
トワも見る。
ハルが呼びかけ、二つを別々に指した。
返す籠。
俺たちが持っていく籠。
トワは返すほうをセトへ渡した。
別の往来に託すのだろう。
俺の探し物のために、何もかも止まるわけではなかった。
ノエが空いた器を指した。
俺は水を運び、家の中へ置いた。
薪も入口の脇へ寄せる。
戻ると、トワと老人が待っていた。
今日一緒に行くのは、この二人だった。
*
セトの前で、戻る日を確かめた。
トワが指を二本立てる。
眠る仕草は一度。
家。
セトが俺を見る。
俺も繰り返した。
二日。
一晩。
戻る。
セトは短く頷いた。
俺の籠へ手を当てる。
重さを確かめ、家のほうへ目を向けた。
ノエは入口に立っていた。
俺は手を上げた。
彼女も少し上げた。
それから、家へ戻った。
*
渡り場の水は、前より少し澄んでいた。
それでも老人は、岸から流れを見ていた。
長い棒を差す。
場所を変える。
トワが荷をまとめる。
俺は足へ皮を当てた。
縄を巻く。
結び終えてから、自分で端を引いた。
老人が見た。
一か所触れる。
今度は、直されなかった。
水へ入る。
老人が前。
俺が真ん中。
トワが後ろ。
足を置いてから、次を探す。
向こう岸へ上がると、俺は座らずに立っていた。
トワが籠を渡す。
受け取ると、急に脚が重くなった。
少し腰を下ろした。
進歩はした。
疲れなくなったわけではない。
*
エナに教わった道を通った。
平たい石。
細い溝。
低地を見下ろす場所。
そこで老人が止まった。
倒木で曲がった細い流れを見たあと、さらに上流へ進む。
俺は昨日までの図を思い出した。
ここから先は、線だけだった。
木々の間へ入る。
低地は左に見えたり、隠れたりした。
老人は真っすぐには歩かなかった。
湿った場所を避ける。
細い枝をくぐる。
ときどき、止まって周りを見る。
俺も帰るほうを見た。
木の並びを覚える。
老人は俺が追いつくまで待っていた。
*
昼を過ぎるころ、川の音が強くなった。
俺は顔を上げた。
木の向こうに、明るいところがある。
足が速くなる。
トワの声で止まった。
老人は、その明るい場所へ行かなかった。
上の斜面を指す。
俺は川のほうを見る。
目的地に近い。
そう思うと、また先へ進みたくなった。
老人が空へ棒を向けた。
次に、斜面。
眠る仕草。
先に寝る場所を決める。
俺は籠の紐を握り、上へ向き直った。
*
寝る場所は、大きな木の根元だった。
地面が少し高く、片側に岩がある。
老人は足元の葉を払った。
土を押す。
木の上を見る。
枯れた枝も確かめた。
トワが荷を下ろす。
俺も下ろした。
そこから川は見えなかった。
だが、音は聞こえる。
老人は川へ下りる道を示し、首を振った。
暗くなってからは行かない。
俺は頷く。
食べ物の包みを開こうとした。
トワが手を止めた。
明日の分を先に外へ出す。
俺は二つに分け直した。
今日。
明日。
さらに、小さな包みを一つ残す。
遅れたときの分だった。
*
火は、老人が持ってきたものから起こした。
葉と樹皮に包まれた小さな熾き。
俺が用意した細枝は、一本だけすぐに外された。
湿っていた。
別の枝を取る。
今度は残った。
トワが息を送る。
煙。
小さな炎。
俺は少し離れたところへ乾いた枝を揃えた。
夜を越える場所ができる。
火を見た途端、集落が遠くなった気がした。
ここにも火はある。
けれど、ユイの声も、石を打つ音も聞こえない。
*
老人は火のそばで食べた。
食べ終えると、低い声でトワへ話す。
岩を示す形。
水の流れ。
その間を指でなぞる。
明日見る場所だろう。
俺は聞こえた川の言葉を真似した。
老人が俺を見る。
もう一度言う。
俺も返す。
彼は頷き、枝で地面へ短い線を引いた。
今日通った低地。
その先に、小石。
明日はそこへ行く。
俺は小石を指した。
「見る」
覚えたばかりの音を続けた。
老人が少し首を傾ける。
トワが言い直す。
俺も真似した。
老人は今度、石をもう一度叩いた。
通じたらしかった。
*
夜になると、川の音だけが残った。
老人は横になった。
トワが薪を一本足す。
俺はスマートフォンを出した。
ボタンには触れなかった。
画面を火へ向ける。
赤い光が揺れた。
トワがこちらを見ている。
俺は黒い板を指した。
胸を指す。
川の向こう。
さらに遠く。
トワが短く尋ねた。
その中に、家を示す音があった。
俺は頷いた。
家。
ここではないところ。
トワは川を指した。
次に、歩く仕草。
その先へ家の形。
俺は首を振った。
歩けば着くのか。
分からない。
スマートフォンを膝へ置き、両手を開いた。
「知らない」
この音は、何度も使っている。
トワは俺を見た。
俺はもう一度言った。
「知らない」
家。
行く。
知らない。
三つを並べるのに、ひどく時間がかかった。
*
トワは地面へ手を伸ばした。
明日の場所を示す石に触れる。
それから、俺を見る。
俺は首を振った。
そこに家があると知っているわけではない。
何かあるかもしれないと思って、確かめに行く。
枝を取り、石のそばへ線を引いた。
途中で止める。
両手を開く。
トワの目が、線から俺へ戻った。
ようやく、同じものを見ている気がした。
彼は俺のスマートフォンを指した。
顔を上げる。
空の向こう。
問いかける声。
俺は頷くことも、首を振ることもできなかった。
「俺も、分からないんだ」
日本語で言った。
トワは黙っていた。
俺はスマートフォンをしまった。
薪を一本取る。
火の端へ置いた。
*
しばらくして、トワが俺の寝る場所を指した。
岩のそば。
草が薄く敷いてある。
俺は立ち、そこへ座った。
横になると、木の間から空が見えた。
星。
あの夜も、こんなに多かった。
身体を起こす。
川の音がするほうを見る。
何も見えない。
トワが薪を動かしていた。
火の向こうに座り、背を木へ預ける。
俺と川のほうの暗がりとの間だった。
槍は手元にある。
俺はもう一度横になった。
トワは星を見ろとも、見るなとも言わなかった。
ただ、そこに座っていた。
*
目が覚めたとき、火は小さくなっていた。
老人が起きている。
枝を足した。
トワは目を閉じていた。
俺は静かに身体を起こす。
火の向こうに、水の器。
その脇には明日の包み。
帰る分も残っている。
スマートフォンの位置を、ポケットの上から確かめた。
それから、横になった。
*
朝、老人が先に立った。
食べ物を少し口へ入れ、水を飲む。
火を始末する。
荷をまとめた。
俺は昨夜寝たところを見る。
来る前には、こんな場所があることも知らなかった。
もう一度来れば、あの岩を見つけられるだろうか。
トワが呼ぶ。
俺は籠を背負った。
斜面を下りる。
川の音が大きくなる。
老人が足を止めた。
前の木を指す。
枝の間から、大きな岩が見えた。
一つではない。
向かい合うように、二つ。
その間に土と木が詰まっていた。
水は岩の手前で曲がり、右へ流れている。
左には、草に覆われた低い筋。
こちらへ続いていた。
老人が昨日覚えた川の音を言った。
今の流れ。
左の筋。
同じ音で、二度。
俺は籠を下ろした。
トワが俺の横へ立つ。
地面に描いた線の先が、目の前にあった。
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