第78話 向こう岸に立つ
翌朝、俺はトワより先に外へ出た。
水。
食べ物。
小さな籠。
昨日のうちに用意したものを、入口の脇へ並べてある。
スマートフォンはポケットに入れた。
鍵もある。
役に立つかは分からない。
それでも、置いていく気にはなれなかった。
トワが来た。
籠の中を見る。
次に、俺の足元。
靴を指された。
今日は、濡れる。
そういう意味らしい。
「分かってる」
川の向こうを指す。
それから、家へ指を戻した。
トワが頷いた。
空を指し、手を低く下ろす。
俺も同じ仕草を返した。
暗くなる前に戻る。
昨日、何度も確かめた約束だった。
*
同行する男は、集落の端で待っていた。
肩へ短い縄をかけている。
手には、長い棒。
トワが声をかけると、男は川の下流を指した。
俺たちは歩き出した。
セトは入口に残った。
俺を見る。
足元。
川。
最後に、家。
俺は頷いた。
一度戻ると伝えるだけでは足りないらしい。
それも、俺が勝手にいなくならないと分かるまでは仕方がなかった。
*
川沿いの道は、ところどころ使えなかった。
男が先へ行く。
崩れた岸を見て、森へ回る。
水へ近づく場所では棒を地面へ当てた。
俺は昨日の木を探しかけたが、すぐにやめた。
今日は、その下流へ行く。
最初の場所から遠ざかるほど、戻れなくなるような気がした。
だが、川を渡るためには遠回りが必要だった。
トワが振り返る。
俺は足を速めた。
*
渡る場所に着いても、男は水へ入らなかった。
川は横へ広がっていた。
浅そうに見えるところに、小さな波が並んでいる。
向こう岸には石が出ていた。
あそこまで行けばいい。
そう思った。
男は少し上流へ歩いた。
棒を差す。
水の中を探る。
首を振って戻る。
次は下流。
こちらでも、しばらく棒を動かした。
トワは岸で待っていた。
俺も待つ。
男が昨日までの道を知っていても、水の下は昨日と同じではない。
棒の先が、急に深く沈んだ。
男は手を止めた。
俺を見て、その場所を指す。
外からは、隣と変わらなかった。
*
渡る線が決まった。
男が棒を斜めに構え、先に水へ入る。
トワが荷をまとめる。
俺は革靴を脱いだ。
泥のついた靴を見て、男が短く何か言う。
トワが答えた。
二人とも俺の足を見た。
「こういう足なんだよ」
白い。
自分でも、少し頼りなく見えた。
靴下も脱ぎ、靴の中へ入れる。
籠へ収めた。
トワが籠を受け取った。
水の中で俺が使うのは、荷を持つ手ではなく、空いた両手だった。
男が戻り、足に巻いていたものを見せる。
薄い革を縄で留めている。
俺の裸足を見る。
首を振った。
トワが荷から獣皮の小片を出した。
足の裏へ当て、縄で留める。
少し歩く。
ずれる。
男が結び直した。
今度は、足についてきた。
*
水は冷たかった。
最初の一歩で、脛が固くなる。
男が前。
俺が真ん中。
トワが少し後ろ。
棒を使い、足を置くところを確かめる。
水は膝の下まで来た。
見えていた石へ足を載せようとする。
男が止めた。
棒の先で、その横を示す。
そちらへ置く。
石は動かなかった。
次の一歩。
流れが脚を押した。
俺は立ち止まった。
身体を正面へ向けたくなる。
男が腰の向きを直す仕草をした。
少し斜め。
棒をつく。
後ろでトワが待っている。
急がなくてよかった。
川の真ん中へ来たとき、元の岸を見そうになった。
やめる。
足元。
次の場所。
今、見なければならないのはこちらだった。
*
向こう岸へ上がると、足が震えた。
俺は石のそばへ座った。
息を吐く。
トワが籠を置いた。
男は足の巻き物を確かめ、緩めるように示した。
縄を解く。
皮の間から水が落ちた。
靴を履く前に、足を拭く。
トワが俺を見る。
口元が少し動いていた。
「笑うほどじゃないだろ」
俺は立とうとした。
膝がすぐには伸びなかった。
座り直す。
トワは水の器を差し出した。
俺は黙って受け取った。
*
向こう岸に立った。
昨日まで、木々の奥として見ていた側だった。
振り返る。
川がある。
元の岸がある。
集落は見えない。
俺は上流を指した。
目を覚ました場所の向かい側へ行きたい。
トワが男へ話す。
男は空を見てから、頷いた。
岸を離れ、少し上へ向かう。
新しい森だった。
木の種類は似ている。
葉も、土も、見たことがある。
それでも、道の分かれ方は知らなかった。
俺はときどき振り返った。
帰るときに見える形を覚える。
トワは止めなかった。
*
川の曲がりが見えるところへ出た。
木々の間に、昨日の岸があった。
あの木。
削れた地面。
根の出たところ。
俺はしゃがんだ。
そこで目を覚ました。
あの夜、光を見たのは対岸だった。
今、俺は対岸にいる。
ところが、光を見た方向を指そうとして、手が止まった。
現代で歩いていた道は、どこだった。
川に沿っていたことは覚えている。
顔を上げた。
光は向こう。
だが、目を覚ました場所が、歩いていた場所と同じとは限らない。
俺は落ちてきた。
どれだけ動いたのかも分からない。
「……こっちへ来れば、分かると思ったんだけどな」
トワが俺の指した先を見た。
何もない。
俺にも、何も見えなかった。
*
少し奥へ入った。
木の間に白いものがある。
足が止まる。
近づきかけた。
倒れた木の、剥けた部分だった。
俺は息を吐いた。
金属。
ガラス。
道の跡。
現代へつながるものを探している。
だから、白く光るものまで違って見える。
男が呼んだ。
俺は戻った。
勝手に離れない。
もう一度、そう決めた。
*
男は岸より高いところへ上がった。
俺たちも続く。
木々が少し途切れる。
そこからは、川の一部がよく見えた。
俺は立ち止まった。
水が曲がっている。
その脇に、細長い低地があった。
今の流れから離れ、森の奥へ続いている。
ところどころ、浅い水が残っていた。
俺はそこを指した。
男が頷く。
川を指す。
低地。
手を大きく広げる。
雨のとき、水が入った場所なのだろうか。
男は低地へ下りなかった。
土を棒で押した。
表面が沈む。
俺は高い場所に残った。
古い川の跡かもしれない。
ただの窪みかもしれない。
それでも、今流れている川だけを見ていていいとは限らない。
現代では、岸を固めていた。
道も造っていた。
俺が知っている川と、この川は、本当に同じ形だったのか。
*
俺は枝を拾った。
足元の土へ、今見えている川を描く。
その横に、低地。
目を覚ました木の位置。
渡ってきた場所。
描くと、少し離れていることが分かった。
記憶の中では、全部が川のそばだった。
実際には、向きも距離も違う。
男が俺の線を見た。
一か所を指す。
顔を上げ、奥の木を示した。
俺は線を直した。
トワが小石を置く。
今、いるところ。
俺は頷いた。
初めて、このあたりをひとまとまりの場所として見られた。
*
トワが空を指した。
太陽が傾いている。
渡ってきた場所を示す。
戻る。
俺は低地を見る。
もう少しだけ先へ行けば、何か見えるかもしれない。
男は水の器を持ち上げた。
残りは少ない。
トワは俺を見ていた。
腕を引かなかった。
俺が動くのを待っていた。
地面の図へ目を戻す。
今日確かめたところ。
まだ見ていないところ。
消えたわけではない。
今日は見に行かないだけだ。
俺は枝を置いた。
「戻ろう」
渡り場を指す。
トワが頷いた。
男が歩き出した。
俺も続く。
*
帰りの川では、来たときより時間がかかった。
足が疲れていた。
男は同じ場所でも、棒で確かめた。
俺は一歩ずつ進む。
岸へ上がったとき、トワが籠を渡した。
靴を履く。
腰の縄を確かめる。
鍵はポケットにあった。
スマートフォンもある。
何も増えていない。
だが、今朝は知らなかった対岸の道を、俺は歩いてきた。
*
集落の煙が見えた。
セトがこちらに気づいた。
トワへ声をかける。
俺の足元を見る。
濡れた裾。
手作りの足の巻き物。
俺は立ち止まり、川を渡る仕草をした。
それから家を指す。
戻ってきた。
セトは短く返事をした。
道を空ける。
ノエが入口へ出てきた。
俺たちの籠を見る。
中に食べ物は増えていない。
俺は少し迷ってから、地面へしゃがんだ。
枝で川を引く。
木。
渡り場。
向こうの低地。
トワが隣へ来た。
俺の線を指し、ノエへ話す。
ノエは低地のところを見た。
少し考える。
家の中へ声をかけた。
エナが出てきた。
図を見る。
川の線へ指を置いた。
その横へ、爪で短い線を足す。
俺は顔を上げた。
エナは川の向こうを指した。
次に、自分の胸。
あの低い場所を、知っているらしかった。
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