第77話 水のない川
エナは、俺が描いた線を消した。
低地から今の川へつなげた、短い一本だった。
俺は顔を上げる。
彼女は首を振り、低地の線をもっと奥へ延ばした。
その脇に、もう一本。
指でなぞるのは、そちらだった。
トワが尋ねる。
エナは家の中へ声をかけた。
ハルが入口へ顔を出す。
図を見る。
小石を一つ動かし、エナへ短く答えた。
二人とも、あの場所を知っていた。
俺は新しい線を指した。
「ここなら、歩ける?」
エナは頷いた。
それから、家の中を見る。
ユイが眠っていた。
彼女はすぐに出発の仕草をしなかった。
ノエを呼び、話を始めた。
俺は枝を置いた。
道を知っている人にも、家を離れるための支度がある。
*
翌朝、エナは俺たちと出た。
ユイのそばにはノエが残る。
ミナも水の器を持って家へ入った。
入口で、エナが振り返る。
ユイは起きていた。
母親へ腕を伸ばす。
エナがしゃがみ、額へ触れた。
短く話す。
ユイの手は、すぐには下がらなかった。
ハルが隣へ座る。
椀を渡す。
ユイが受け取ると、エナは立ち上がった。
俺は水を抱えて待った。
彼女が歩き出してから、続いた。
*
渡り場では、昨日の男が先に流れを確かめた。
俺は足へ皮を当て、縄を巻く。
男が屈んだ。
結び目を一つ直す。
昨日覚えたはずのところだった。
トワが俺の籠を取る。
川を渡り終えると、今度はエナが先に立った。
俺たちが昨日止まったところへ来る。
彼女は低地へ下りず、上の斜面へ向かった。
木々の下に、浅い水が見える。
黒い葉が沈んでいた。
俺がそちらへ目を向けたとき、エナが呼んだ。
足元。
道は曲がっていた。
俺は視線を戻した。
*
細い溝を越えた。
水はほとんどなかった。
エナが棒で葉を払う。
丸い石が出る。
その上へ足を置き、俺を待った。
続いて渡る。
少し先で、彼女がしゃがんだ。
砂の筋を指す。
その脇にも、小さな丸い石があった。
トワが砂をつまみ、指の間から落とす。
エナと話す。
俺は足元から低地へ目を移した。
木の葉と草に隠れているが、地面の低いところはつながっていた。
エナは川を示す音を言った。
昨日も聞いた。
今朝、渡り場でも聞いた。
低地を指して、同じ音。
「これも、川?」
俺が真似すると、エナは頷いた。
両手で流れを作る。
次に、掌を下へ向ける。
今は流れていない。
俺はその音をもう一度言った。
彼女は訂正しなかった。
*
木々が少し開けた。
低地が、目の前へ長く続いている。
両側は緩やかに高い。
間には、水たまりと草。
奥では根が露出していた。
エナは脇へ荷を下ろした。
石を一つ指す。
平たく、上面だけ滑らかだった。
そこへしゃがみ、何かを洗う仕草をする。
次に、手で流れを示した。
トワが尋ねる。
エナは自分の胸を指し、頷く。
俺は石を見た。
ここへ来たことがある。
水のあるときに。
いつのことかは、聞き取れなかった。
だが、ただ昨日の雨でできた窪みを見せに来たわけではなかった。
*
その先に、細い流れがあった。
水は石の間を抜けている。
低地へ向かうように見えたが、途中で横へ曲がっていた。
エナは俺を少し高い場所へ呼んだ。
そこから見ると、曲がるところに土と枝が重なっていた。
大きな木が倒れ、根についた土が溝を塞いでいる。
水は、その脇から別の低いほうへ逃げていた。
昨日、俺が図に引いた短い線とは逆だった。
俺は流れを目で追った。
トワが倒れた木を指す。
水。
横の溝。
エナが頷いた。
枝を一本拾う。
足元へ二本の線を引き、片方へ小石を置いた。
水を表すように、指を進める。
石のところで止める。
もう片方へ動かす。
俺は倒木を見た。
この川は、途中で道を変えた。
少なくとも、目の前ではそうなっている。
*
俺は低地へ近づきかけた。
男の棒が前へ出る。
止まった。
彼は草の下を押した。
水がにじむ。
棒を引くと、黒い土がついていた。
俺は高いところへ戻った。
先を調べたい。
だが、見える地面の全部を歩けるわけではない。
エナはもっと奥を指し、それから首を振った。
今日は入らない。
俺も頷いた。
倒木と、流れが曲がる場所を見る。
あの夜、白い光を見た。
それがここで起きたとは言えない。
ただ、今の川岸だけを探しても、見落とす場所がある。
それは、ようやく自分の目で確かめられた。
*
乾いた石のそばで休んだ。
食べ物を分ける。
俺はエナへ包みを差し出した。
彼女は一つ取り、残りを返した。
トワにも渡す。
男は水を飲んだ。
エナが低地を指し、俺へ尋ねる。
何を探している。
たぶん、そういう問いだった。
俺はスマートフォンを出した。
彼女の目が画面へ落ちる。
自分の胸。
目を閉じる。
地面から起きる仕草。
川の向こう。
最後に、両手を一瞬だけ広げた。
白い光。
エナは俺の手を見た。
トワも見ている。
二人とも頷かなかった。
俺は手を下ろした。
「ここからが、難しいんだよな」
エナは画面へ指を伸ばしかけ、止めた。
俺を見る。
俺は彼女の掌へ置いた。
*
エナは表と裏を見た。
縁をなぞる。
黒い画面に空が映ると、角度を変えた。
自分の顔が映った。
眉が寄る。
もう一度傾ける。
俺は少し笑った。
彼女がこちらを見る。
「いや、笑ったわけじゃ……」
笑ったところだった。
言い直すのをやめた。
エナは俺へ返す。
シャツの袖口を指した。
次に、スマートフォン。
川の向こう、さらに遠く。
俺は頷いた。
知らないところから来た。
それ以上は、まだ伝わらなかった。
*
帰る前に、地面へ今日の道を描いた。
渡り場。
高いところを回った道。
水のない低地。
倒木。
流れが横へ曲がる場所。
途中で、距離が分からなくなった。
エナが指で一か所を直す。
男は今いるところへ石を置いた。
トワが渡り場を指す。
俺は描き直した。
最初に目を覚ました場所には、別の小石を置く。
そのとき、手に持ったスマートフォンが図の上へ下がった。
泥のすぐ手前で止める。
トワの口元が動いた。
「置かないから」
ポケットへ戻した。
俺は小石と倒木の印を見比べる。
今いる場所は、最初の場所より上流側。
戻る道は下流へ。
次に来るなら、同じ渡り場からここまで来られる。
エナが枝を俺へ返した。
俺は最後の線を引いた。
*
帰り道では、ときどき振り返った。
平たい石。
砂の筋。
細い溝。
歩いてきた方向から見ると、形が少し違う。
エナはそのたびに待った。
道を急がせる代わりに、曲がるところで木を示した。
俺は頷く。
トワが水を持ち直す。
男は先へ進んだ。
渡り場へ着くころには、太陽が傾き始めていた。
俺は足の縄を締め直した。
今日は戻る。
見ていない先は、図に残っていた。
*
集落へ着くと、ユイがエナを呼んだ。
彼女は荷を下ろし、家へ入る。
俺は入口の外へ座った。
靴から砂を払う。
細い粒が地面へ落ちた。
枝を拾い、今日の図をもう一度描く。
歩いた場所なら、昨日より描けた。
ウネが通りかかった。
足を止める。
トワが話し始めた。
エナも家から出てくる。
倒木の印を指した。
二人の話を聞いたウネが、集落の奥へ声をかけた。
年を取った男が来た。
俺たちの図を見て、枝を受け取る。
倒木より奥へ、低地の線を延ばした。
今の川から、こちらへ入る線。
俺は顔を上げた。
男は二本の線が接するところを指した。
トワが尋ねる。
男は頷いた。
両手で水の流れを作る。
次に、掌をその場所へ押し当てた。
塞がった。
線の横へ指を動かす。
水は別のほうへ行く。
エナが今日の倒木を示す。
男は首を振った。
そこではない。
もっと上流の印を、枝先で叩いた。
俺は二つを見た。
今日見た小さな流れの曲がり。
さらに奥にある、川の入口。
水のない低地は、上流でも今の川につながっていたらしい。
*
男は近くの石を三つ取った。
二つを並べ、その間へ三つ目を置く。
塞ぐ。
それから、三つ目を少し外し、脇へ指を通した。
トワが短く確かめる。
男は頷き、川のある方向を指した。
大きな石のある場所。
流れが分かれるところ。
実際に確かめる目印ができた。
俺は枝で、そこを丸く囲んだ。
男が俺を見る。
俺は自分を指し、丸を指した。
行きたい。
男はすぐには頷かなかった。
空を見る。
指を二本、歩かせる。
途中で止め、両手を頬の横へ置いた。
眠る。
俺はトワを見た。
トワも同じ仕草をした。
そこまで行って戻るには、川の向こうで一晩過ごす。
ノエが入口へ出てきた。
図を見る。
俺のそばにある小さな籠を見た。
そして、水の器をもう一つ持ってきた。
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