第76話 俺が来た場所
トワが籠を受け取ったとき、俺は鍵を握っていた。
ハルが直した小さな籠だった。
中には、向こうへ返す材料の束が入っている。
ハルが川を指す。
トワが頷いた。
籠には、届く場所がある。
俺の鍵には、開ける扉がない。
「トワ」
彼が振り返った。
俺はポケットからスマートフォンを出した。
*
黒い画面を見せる。
自分の胸を指す。
次に、森。
川。
トワは少し眉を寄せた。
俺は地面へ片膝をついた。
横になっていたところから、身体を起こす仕草をする。
それから両手を上げた。
槍を向けられた、あの朝。
トワの目が俺の手から顔へ戻った。
短く尋ねる。
俺は頷いた。
「見つかった場所。そこへ行きたい」
川を指した。
トワはすぐには動かなかった。
籠を下ろし、家の中へ入る。
戻ってきた手には、俺が使っている籠があった。
足元へ置く。
スマートフォン。
鍵。
籠。
森。
順に指した。
俺は彼の手を見た。
持ち物をまとめて、出ていく。
そう伝わったのか。
「いや、待って」
俺は籠を家の入口へ戻した。
水の器を取る。
自分を指す。
トワを指す。
川へ。
それから、同じ指を家へ戻す。
行って、帰る。
もう一度やった。
トワは家を見た。
俺を見る。
俺は頷いた。
彼はようやく、水の器へ手を伸ばした。
*
ノエが入口へ来た。
トワの話を聞き、俺の掌を見る。
鍵が、まだ出ていた。
俺は握り直した。
未来。
会社。
駅。
AI。
説明したいことはいくらでもある。
だが、今伝えられるのは、川へ行きたいということだけだった。
ノエは家へ戻った。
葉の包みを持ってくる。
俺へ渡した。
食べ物だった。
俺は受け取った。
帰る仕草を、彼女にも示す。
ノエは俺の指を見たあと、腰の縄へ目を落とした。
結び目が緩んでいた。
端を引き、直す。
それから手を離した。
俺は鍵をしまった。
*
集落の端で、トワがセトを呼んだ。
川を指す。
俺の名を言う。
セトは俺を見る。
俺はもう一度、両手を上げた。
次に、地面へ横になる仕草。
セトの顔が変わった。
槍の柄を地面へ立て、自分の胸を指す。
森のほう。
少し離れた地面。
俺を指した。
「あの場所、分かるのか」
セトはトワへ向き直った。
二人で話す。
川の曲がりを地面へ引き、木を示す短い印をつけた。
トワが聞き返す。
セトは印を一つ直した。
俺はその枝先を見ていた。
自分では覚えていない場所を、この人は覚えている。
最後にセトは川の線の脇を押した。
土が崩れる。
俺へ見せた。
岸へ近づくな。
頷く。
トワが水を持ち直し、歩き出した。
*
採集へ行く道とは違った。
川の音が近くなる。
トワは分かれ目で一度止まり、周りの木を見比べた。
セトから聞いた場所を探しているのだろう。
俺も足を止めた。
最初にここを歩いたときは、ただ三人の背中についていった。
どちらへ曲がったのか。
どれくらい歩いたのか。
何一つ覚えていない。
スマートフォンがあれば、道は残ると思っていた。
あのとき、画面はもう消えていたのに。
トワが向きを変える。
俺は後を追った。
足元の根を避ける。
枝へ引っかかる前に、肩を引く。
あの朝よりは、歩けていた。
*
川が見えた。
俺は立ち止まった。
濁った水。
対岸の木。
何も思い出せなかった。
ここだと言われても、分からない。
トワは岸へ下りず、木々の間を上流へ進んだ。
やがて一本の木のそばで止まる。
幹を見る。
セトが描いた印を思い出すように、川を確かめた。
俺を呼ぶ。
「サエ」
木の陰へ立つ。
こちらを見る。
少し離れた場所を指した。
俺は振り返った。
あの朝も、こうして背後を見た。
枝の折れる音。
木の間に立つ人。
槍。
記憶の中の姿が、目の前の木々へ重なった。
「……ここか」
俺は幹へ手を置いた。
川を見る。
倒れていたのは、もっと前だったはずだ。
*
数歩進んだ。
トワの声がした。
俺は止まった。
落ち葉の先で、地面が切れていた。
土が削れ、根が外へ出ている。
下を水が流れていた。
俺が横になっていたと思う場所には、もう立てない。
一歩戻る。
足元を確かめてから、さらに戻った。
トワは腕をつかまなかった。
俺が離れるのを見て、槍の柄で岸の縁を示した。
雨で失われた地面。
俺はそれを見下ろした。
「ここまで来れば、何かあると思ってたんだけどな」
川の音だけが続いた。
*
スマートフォンを出した。
電源ボタンを押す。
待つ。
黒いまま。
長く押した。
何も変わらない。
俺は指を離した。
また押す。
トワは少し後ろに立っていた。
急かさなかった。
画面に映った顔を見る。
頬が焼けている。
髪が伸びた。
シャツの袖口は擦れていた。
この板に、一度は何でも尋ねていた。
行き方。
仕事のこと。
分からない言葉。
今は、どこへ立てばいいのかさえ答えがない。
俺はスマートフォンをしまった。
川へ目を戻す。
*
あの夜を、順に思い出した。
川沿いの道。
消えた街灯。
対岸の建物。
星。
白い光。
そこで止まった。
光は、川の向こうだった。
目を覚ました場所ばかり探していた。
落ちた場所と、何かが起きた場所が同じだとは限らない。
俺は対岸を見る。
木が並んでいる。
その奥は見えない。
「トワ」
向こうを指した。
歩く仕草。
川を越える。
トワは流れを見た。
首を振る。
ここでは渡れない。
俺は頷いた。
だが、目を離せなかった。
川の向こうに何があるか、一度も確かめていない。
*
木の陰へ戻り、食べ物を分けた。
トワへ半分渡す。
水を飲む。
彼は空を見た。
家のある方向を示す。
帰る。
俺は包みを畳んだ。
約束した。
行って、戻る。
何も見つからなかったからといって、ここへ座り続けても仕方がない。
立ち上がる。
幹を見る。
岸が切れ始める位置。
川の曲がり。
次に来たとき、見つけられるように覚える。
それから枝を拾った。
地面へ川の線を引く。
自分のいる側へ、小石を置いた。
対岸へ、もう一つ。
二つ目を指す。
トワを見る。
「ここじゃなくても。渡れるところは?」
トワがしゃがんだ。
俺の線を下流へ延ばす。
ずっと先で止める。
川の両側へ指を置いた。
片方から、もう片方へ動かす。
俺は顔を上げた。
トワは下流を指した。
次に、自分の足。
歩く。
今度は、首を振らなかった。
「あるんだな」
俺は二つ目の石を、その場所へ動かした。
トワが短く答える。
水の器を持ち、立った。
今日は戻る。
俺も枝を置いた。
対岸をもう一度見る。
白い光が走った向こう側へ、行く道はあった。
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