第75話 先に来ていた人
木の向こうで、籠が動いた。
俺は足を止めた。
人がいる。
一人ではなかった。
少し離れたところにも、地面へしゃがんだ背中が見えた。
トワが片手を上げる。
ノエも止まった。
俺は肩紐から手を離した。
新しい道は、昨日よりずっと歩きやすかった。
籠は枝へ当たらなかった。
だから、着いたらすぐ下ろせると思っていた。
下ろす場所には、もう別の籠があった。
*
向こうの男が立ち上がった。
俺たちを見る。
その横に、槍が置かれていた。
男の手が柄へ伸びる。
トワも足を止めたまま、声をかけた。
男の手が止まる。
顔を上げる。
見覚えがあった。
ユイを迎えに来たとき、魚を置いていった男だ。
川のそばで、水を飲んだ男でもある。
男はトワへ答えた。
次に俺を見る。
服へ目が行く。
顔へ戻る。
「サエ」
俺は少し驚いた。
「ああ」
返事をして、胸へ手を当てた。
男は槍から手を離した。
近くの女が立つ。
もう一人も、籠を持ち上げた。
帰ろうとしているのではない。
中を見せないよう、身体の後ろへ寄せたのだ。
俺は地面を見た。
木の実が落ちている。
枝にも、まだ残っている。
だが、いくらでもあるわけではなかった。
*
ノエが前へ出た。
足元の実を一つ取る。
向こうの女へ見せた。
女が答える。
ノエは上の枝を指した。
次に、俺たちの籠。
向こうの女も自分の籠を指した。
声は強くない。
それでも、二人ともすぐには座らなかった。
トワと男が話す。
俺は籠を背負ったまま待った。
中身はまだない。
それなのに、肩紐が食い込むような気がした。
ノエが俺を見る。
地面を指す。
俺は一歩横へ動いた。
また指される。
もう一歩。
ノエは空いた場所へ、自分の籠を下ろした。
俺が立っていたところは、平らで乾いていた。
「そこに置きたかったのか」
籠も下ろす。
向こうの男の口元が、少し動いた。
*
話が落ち着くと、ノエは近くの木へ向かった。
向こうの女は、沢のような浅い窪みの反対側へ戻る。
固定の境目を作ったわけではないらしい。
今日は、互いの近くへ入り込まずに拾う。
そのくらいの約束だった。
俺もノエの後ろへしゃがんだ。
拾った実を掌で確かめる。
重い。
穴はない。
籠へ入れた。
次の一つは、窪みの向こうにあった。
手を伸ばしかけて、止める。
俺は立ち上がらず、こちら側の葉を払った。
向こうの女が見ていた。
何も言わず、自分の足元へ目を戻す。
トワは少し離れた場所で、周囲を見ていた。
男も槍を木へ立てかけた。
二人とも、まだ手の届くところに置いている。
*
籠の底が少し隠れたころ、男がこちらへ来た。
ノエへ声をかける。
次に、俺の籠を指した。
俺は拾った実を持つ手を止めた。
中身を見たいのか。
だが、男は底の新しい編み目へ触れた。
「ハル」
俺は頷いた。
男は継ぎ目を指で押し、短く何か言った。
ノエが答える。
俺は籠を少し傾け、直したところを見せた。
男は顔を近づける。
一本だけ、色の違う材料が混じっていた。
そこを見つけると、指で軽く叩いた。
知っている編み方なのだろう。
男は肩から小さな包みを外した。
開く。
平たく裂いた材料の束だった。
籠を直すときに使ったものと似ている。
男はそれを俺へ差し出した。
「ハル」
俺は受け取った。
ハルへ持って帰る。
そこは間違えようがなかった。
*
トワが近づいた。
男が話し始める。
ハル。
エナ。
ユイ。
知っている名が続いた。
俺は束を膝へ置いた。
男は川の向こうを指し、手を大きく流した。
籠を編む仕草。
次に、両手を広げて何かを囲む形。
トワが尋ねる。
男が答える。
近くにいた女も加わった。
声の中に、ハルの名がまた出る。
戻ってほしい。
そういう話なのかと思った。
俺は材料の束を見た。
これを渡して、仕事をさせたいのだろうか。
男が自分の籠を持ってきた。
底の一部が、粗く直されている。
継ぎ目は浮き、縁も少し歪んでいた。
女がそこを指した。
自分の胸を指す。
男が頷く。
彼女が直したらしい。
男は籠を置いた。
ハルを呼ぶときのように口を開き、首を振る。
次に、手を動かして編む。
女も同じ仕草をした。
ハルがいなくても、直そうとしている。
俺は二人を見た。
男は材料の束をもう一度指す。
余ったのか。
使ってほしいのか。
そこまでは分からなかった。
だが、束を俺から取り戻そうとはしなかった。
*
向こうの女が、籠の持ち手を見せた。
縄が巻いてある。
途中の継ぎ目。
俺は覚えていた。
ハルが返した縄だった。
女はそこを持ち、籠を背負った。
数歩歩く。
下ろす。
男が何か言った。
女は短く返す。
トワが俺を見る。
縄を指した。
次に女。
籠。
俺は頷いた。
ハルが借りて持ち出したものは、向こうでも使われていた。
返したあと、また誰かの手に戻った。
俺の中では、あの縄は交渉の途中に出てきた物だった。
彼らには、明日も荷を運ぶための物だった。
*
男がエナの名を言った。
トワが家のあるほうを指す。
ユイ。
寝る仕草。
男の眉が少し緩んだ。
女は包みから魚を一切れ出した。
葉で包み直す。
材料の束の上へ置いた。
ユイの名。
俺は頷いた。
「持っていく」
男が俺の言葉を真似しかけた。
途中でやめる。
俺も、相手の言葉を何と返せばいいのか迷った。
男は束を持つ真似をし、歩く形を指で作った。
それから、ハルとユイ。
俺は同じ順番で指した。
今度は男が頷いた。
伝言を覚えるため、俺は二つを別々に包んだ。
材料はハル。
魚はユイ。
混ぜなければ、帰ってから迷わない。
*
採集へ戻った。
ノエはもう、木を一本移っていた。
俺も籠を持ってついていく。
向こうの女は反対側で拾っている。
葉の間に実が見える。
取る。
確かめる。
籠へ落とす。
乾いた音が増えていった。
昼が近づくと、トワが空を見た。
ノエも顔を上げる。
今日はここまで。
向こうの男も籠を背負った。
俺は材料と魚を、拾った実の上へ置いた。
帰りに潰さないよう、葉を挟む。
男がトワへ声をかけた。
トワは新しく通った道を指した。
男は川のほうを見てから、頷いた。
同じ方向へ少し歩く。
分かれ目で止まる。
男たちは下へ。
俺たちは二股の木のほうへ向かった。
振り返ると、女があの縄を握って籠を背負い直していた。
*
帰り道では、誰も籠を托してくれなかった。
必要もなかった。
昨日空けた枝の間を通る。
平たい石。
二股の木。
そこを曲がると、集落へ下りる道が見えた。
俺は背中の荷を感じた。
木の実。
材料。
小さな魚の包み。
自分で拾ったものと、渡されたもの。
ポケットへ手を入れかけた。
硬い角に指が触れる。
スマートフォンだった。
取り出さなかった。
画面が点かないことは、もう知っている。
今朝の男は、ハルが離れたあとも、その編み方を覚えていた。
使う材料を持ってきた。
ユイがどうしているか、尋ねた。
俺が消えたあとにも、誰かが何かを確かめただろうか。
会社の机。
帰らない部屋。
川沿いの道。
何を見れば、俺がここにいると分かる。
指を離した。
前でノエが振り返った。
俺は歩く速さを戻した。
*
家へ帰ると、ハルは入口の近くにいた。
膝には修理中の籠。
俺の背中を見て、手を伸ばす。
籠を下ろした。
中身を見せる。
ノエは木の実を広げる敷物を取りに行った。
俺はその前に、二つの包みを出した。
材料をハルへ。
魚をエナへ。
「ハル」
束を指す。
男の籠を見たときのように、底を編む仕草をする。
次に、川の向こう。
トワがそばへ来た。
ハルへ話す。
材料の束。
あの縄。
向こうの女が直していた籠。
ハルは途中で顔を上げた。
何か尋ねる。
トワが答えた。
ハルは束から一本抜いた。
幅を見る。
指で曲げる。
エナも近づき、継ぎ足された端へ触れた。
短く言う。
ハルが頷いた。
その一本を、すぐには籠へ通さなかった。
*
ユイがエナを呼んだ。
エナは魚の包みを見せる。
何か名前を言った。
ユイが返す。
俺には、今日会った男の名なのか、女の名なのか分からなかった。
ただ、ユイは包みへ手を伸ばした。
エナが小さく割って渡す。
ハルはそれを見ていた。
やがて、材料を膝へ置く。
自分のそばにあった小さな籠を取った。
縁は、もう直っている。
底も押して確かめた。
トワを呼ぶ。
「これ、まだ直すのか」
俺が覗くと、ハルは首を振った。
籠をトワへ差し出す。
川の向こうを指した。
次に、今日届いた材料。
トワが籠を受け取る。
ノエが敷物を持って戻ってきた。
ハルは彼女にも声をかけた。
籠を指す。
ノエは縁を確かめ、ハルの顔を見た。
少しして、頷いた。
ハルの肩から力が抜ける。
俺は空になった材料の包みを畳んだ。
トワが受け取った籠を、入口の内側へ置く。
次に向こうへ持っていく物だった。
ハルは新しい材料を一本取り、膝の籠へ通した。
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