第71話 川へ持っていく籠
朝、ハルは籠の縁を握っていた。
昨日、底を直した籠だった。
女が中へ葉の包みを入れる。
ハルは編み目を確かめ、手を離した。
トワが持ち上げる。
底から何も落ちなかった。
ハルが短く呼び止めた。
トワが振り返る。
ハルは川のほうを指し、それからユイを見た。
眠っている。
昨夜は何度か目を覚ましたが、今は指も緩んでいた。
トワが頷く。
ハルは籠の縁へもう一度触れた。
俺には何も渡さなかった。
包みを開いたまま、しばらく考えていた。
やがて骨の道具を戻し、葉を閉じる。
自分のそばへ置いた。
*
セトが俺の掌を見た。
傷の縁は乾いていた。
だが、強く握ればまだ痛い。
俺が籠へ手を伸ばすと、セトは持ち上げてしまった。
代わりに、小さな器を指す。
水を入れた器だった。
抱えれば持てる。
トワが飲む仕草をし、俺を指した。
次に、自分とセト。
運ぶ役。
向こうでも、手が空いている者が一人いたほうがいいのだろう。
「分かった」
受け取る。
ミナは家に残った。
年老いた女も、ナギのそばにいる。
ウネが俺たちを見送り、森へ向かう道を指した。
セトが先に歩き出す。
トワが続く。
俺は器を抱えて、その後ろへついた。
*
川の音が聞こえる前に、見回りの男が戻ってきた。
セトが止まる。
男の脚には泥がついていた。
話しながら、手を斜めに滑らせる。
地面を指す。
首を振る。
セトは昨日の図を描かなかった。
短く尋ね、返事を聞くと、そのまま道を変えた。
少し先で、木々の間から川が見えた。
岸が欠けていた。
草のついた土が、大きな塊のまま傾いている。
その下を濁った水が流れていた。
道だったらしい細い場所は、途中でなくなっていた。
俺は足を止めた。
ハルが枝で削った線。
あれは、このことだった。
トワが俺の袖を引く。
岸から離れる。
セトは見回りの男へ声をかけた。
男は頷き、川が見える手前の木のそばへ残った。
向こうの者が来たら、ここで呼び止めるのだろう。
俺たちは上へ回った。
*
二つの大きな石の間に、平らな場所があった。
川からは少し離れている。
水の音は聞こえるが、声を出せば届く。
セトが周りを見た。
トワは籠を下ろす。
俺も水の器を置いた。
落ち葉を少し払ってから、座る。
息を整えた。
ここまで誰にも腕を引かれなかった。
転ばず、蛇も踏まず、器の水もほとんど残っている。
俺の森歩きとしては、かなりいい朝だった。
トワが器を覗いた。
俺を見る。
水面を見る。
「減ったのは、飲んだからだ」
半分は本当だった。
*
声がした。
昨日の二人が、見回りの男についてきた。
先に立つ男は、平らな場所へ出ると足を止めた。
セトを見る。
川のほうを指して、強く言う。
セトが答えた。
見回りの男も口を開く。
泥のついた脚を指し、欠けた岸のほうを示した。
先の男はそちらへ顔を向けた。
籠を背負った男が、一歩前へ出る。
何か尋ねる。
見回りの男が頷いた。
二人は短く話した。
先の男の声が、少し下がった。
俺は器から手を離した。
場所を変えただけでも、相手には別の意味に見える。
連れてきた男がいなければ、最初から話がこじれていたかもしれない。
*
トワがハルの名を言った。
次にユイ。
向こうの男はすぐ答えた。
こちらへ引く仕草。
昨日と同じだった。
セトが首を振る。
足元を指した。
トワは腰を下ろし、片脚を伸ばした。
年老いた女がナギの脚を支えるときのように、両手を添える。
次にユイの名。
向こうの男が何か返す。
籠の男は黙って聞いていた。
やがて、こちらの籠へ目を向けた。
しゃがむ。
底の新しい編み目へ指を当てた。
「ハル」
トワが言った。
男が顔を上げる。
もう一度、底を見る。
口元が少し動いた。
籠を裏返しかけ、トワに止められた。
中に物がある。
男は手を離した。
俺は籠を二人の間へ寄せた。
葉の包みを取り出す。
木の実を少し。
乾いた魚を少し。
女が朝、入れたものだった。
トワが包みを開く。
先の男は手を出さなかった。
*
籠の男が肩の荷を下ろした。
籠の片側が潰れている。
底には泥が乾いてこびりついていた。
男はそれを示し、川のほうを指した。
手を大きく流す。
次に、魚の包みを出した。
昨日より小さかった。
俺は向こうの籠を見た。
彼らも、無事な場所から来ているわけではない。
先の男がハルの名を言う。
手を動かし、何かを編む仕草。
川の向こうを指す。
こちらへ引く。
働ける者に戻ってほしい。
俺には、そんな話に見えた。
トワはハルの名を返した。
足を指す。
セトも続ける。
声が強くなる。
向こうの男は黙らなかった。
籠の男が二人の間へ手を入れた。
ユイの名を言う。
寝る仕草。
食べる仕草。
自分の籠を指した。
先の男が振り返る。
二人の話は、昨日より長かった。
*
俺は水の器を取った。
トワの前へ差し出す。
トワは少し飲んだ。
次にセト。
飲み終えると、器を俺へ戻した。
向こうの二人を見る。
俺は器を持ったまま、少し前へ出した。
籠の男が手を伸ばした。
先の男が何か言う。
男は止まらず、器を受け取った。
一口飲む。
隣へ差し出す。
先の男はしばらく見ていた。
やがて槍を石へ立てかけ、両手で器を持った。
俺は空いた手を見た。
さっきまで、皆が槍か荷物を握っていた。
今は、一人が水を飲んでいる。
そのあいだだけ、声が止まった。
*
トワが魚を指した。
ユイ。
ハル。
ナギ。
三人の名を、順に口にした。
籠の男はナギの名を聞くと、短く答えた。
先の男もこちらを見る。
セトが話す。
ナギの足。
持ち上げる仕草。
トワ。
俺。
担架を運ぶときの形だった。
籠の男が俺へ目を向けた。
掌を見た。
俺は手を膝へ戻した。
トワがこちらの魚を少し分け、向こうへ置いた。
籠の男は、自分の包みから二切れ取った。
こちらへ置く。
数を数えるように指を動かす。
セトが首を振り、魚を返す。
向こうの男が、また強く言った。
俺は包みを見た。
食べ物を全部こちらへ寄せれば、向こうで困る。
全部返せば、こちらだけで三人を養うことになる。
トワが両方の包みを離した。
少しずつ、二つに分ける。
籠の男が量を見た。
一切れを戻す。
代わりに別の葉の包みを開いた。
木の実だった。
セトが頷いた。
話が、手の届くものになっていた。
*
寝具の話になったのは、籠の男が肩の獣皮へ触れたときだった。
ユイの名。
寝る仕草。
川の向こう。
また、こちら。
トワが頷く。
自分の寝床を示すように、地面へ手を広げた。
ハルとナギの名も出る。
先の男は首を振った。
指を一本立てる。
ユイ。
籠の男が答える。
今度はセトが間へ入った。
こちらの食べ物を指す。
向こうの包み。
寝る場所。
話が何度か往復した。
最後に、籠の男が自分の胸を指した。
川の向こうを示す。
荷を背負う仕草。
ここ。
トワがその手を追い、頷いた。
次も、この場所で受け取る。
俺は二つの大きな石を見た。
食べ物や寝具を渡す場所が決まれば、相手は集落の入口まで来なくて済む。
セトが地面を掌で叩いた。
向こうの男も、それを見た。
すぐには頷かなかった。
だが、別の場所を指すこともしなかった。
*
帰る前に、籠の男が何か言った。
ユイの名が聞こえた。
次に、知らない音。
トワが聞き返す。
男は同じ音を繰り返した。
胸の前に、小さい者を抱く形を作る。
先の男が口を挟んだ。
籠の男は答え、家のある方向を指す。
ユイ。
知らない音。
一緒に来る仕草。
トワがセトを見る。
セトは少し考え、男を指した。
次に、もう一人。
掌を二度、地面へ向ける。
場所はここ。
籠の男が頷いた。
俺はトワへ顔を寄せた。
「誰か、来るのか」
トワはユイの名を言った。
知らない音を返す。
それから、抱く仕草。
母親だろうか。
そう思ったが、口にはしなかった。
ここでは、分かったつもりになるのが一番早い。
確かめるのは、帰ってからでもできる。
*
二人が去ったあと、セトはすぐに荷を取らなかった。
森へ消える背中を見る。
見回りの男へ声をかける。
男が少し離れて歩き出した。
道を確かめながら帰るのだろう。
トワは包みを籠へ戻した。
朝より、少し重くなっていた。
底を確かめる。
編み目は動かない。
俺は水の器を持ち上げた。
こちらは軽かった。
「役には立ったな」
器へ言う。
トワが俺を見る。
中を覗く。
そして、自分の口を指した。
帰りの水が少ない。
そこまでは考えていなかった。
*
家へ戻ると、ハルが入口を見ていた。
俺たちの足音で、ユイも顔を上げる。
トワが籠を下ろした。
女が中を見る。
葉の包みを取り出す。
朝にはなかった木の実。
魚。
女はウネへ声をかけた。
ハルは食べ物より、トワの顔を見ていた。
トワがしゃがむ。
ユイの名を言う。
次に、あの知らない音。
ハルの手が止まった。
ユイが身体を起こしかける。
年老いた女が背中を支えた。
「エナ」
ユイが言った。
トワが頷く。
ユイはもう一度呼んだ。
今度は入口へ向かって。
ハルがその肩へ手を置いた。
笑ってはいなかった。
トワは二つの石を床へ置き、外を指した。
次に、自分とセト。
明日か、その次か。
そこはまだ分からない。
だが、誰を迎えに行くのかは決まっていた。
ハルは膝の籠を脇へ置いた。
ユイの獣皮を直す。
そのあとで、トワを呼び止めた。
「エナ」
同じ名だった。
ハルは自分の胸を指した。
トワを見る。
今度は、短く済ませるつもりのない声だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




