第7話 役に立たない
「サエキ」
声がして、
俺は振り返った。
昨日、水をくれた女が立っていた。
女はもう一度、
俺の名前を呼ぶ。
「サエキ」
「ああ」
返事をしてから、
少し遅れて気づいた。
今、
呼ばれたから振り返った。
昨日までは、
誰の声が自分に向けられているのかさえ、
分からなかった。
女が何か言った。
そこから先は、
やっぱり分からない。
「ごめん。そこまではまだ無理だ」
女は俺の顔を見た。
手にしていた器を持ち上げる。
それから歩き出した。
数歩進んで、
振り返る。
「……ついて来い?」
女はまた歩き出す。
たぶん、
そういうことだ。
俺は後を追った。
*
女は集落の外へ向かった。
あの子どもも一緒だった。
手には、
小さな器を持っている。
森へ入る。
昨日より、
少しだけ歩きやすかった。
道が分かったわけじゃない。
二人が踏んだところを、
俺も踏んでいるだけだ。
やがて、
水の音が聞こえてきた。
川だった。
流れはそれほど広くない。
水は澄んでいて、
底の石まで見えた。
女はすぐには水辺へ下りなかった。
川沿いを少し歩く。
ある場所で止まり、
しゃがんだ。
器に水を入れる。
子どもも真似した。
俺は、
ぼんやり見ていた。
子どもが器を口へ運ぶ。
「待って」
思わず声が出た。
子どもの手が止まった。
女も俺を見る。
「それ、そのまま飲むのか?」
通じない。
分かっている。
それでも、
言わずにはいられなかった。
俺は川を見る。
透明だった。
臭いもしない。
だから安全だとは限らない。
目に見えないものが、
水の中にいることがある。
腹を壊すこともある。
もっと悪いことだってある。
俺は子どもの器を指した。
次に、
集落の方向を指す。
両手で、
炎が上がるような仕草をした。
水。
火。
もう一度、
水。
「分かる?」
子どもは俺を見た。
そして、
水を指す。
両手をひらひらさせる。
俺の真似だった。
「いや、遊んでるんじゃなくて」
子どもが笑った。
もう一度、
火の仕草をする。
完全に遊びになっていた。
*
後ろから声がした。
振り返る。
若い男が立っていた。
昨日、
名前らしい音を教えてもらった男。
それでも俺の中では、
まだ「あの男」のほうがしっくりくる。
男は俺を見る。
子どもの器を見る。
何か言った。
女が答える。
男の目が、
また俺に戻った。
「邪魔してるわけじゃない」
言ってから、
口を閉じた。
向こうには、
そう見えているかもしれない。
俺は川を指した。
次に腹を押さえる。
苦しそうな顔をする。
火を指す仕草。
もう一度、
水。
若い男の眉が寄った。
「違う。水をそのまま飲むと――」
そこまで言って、
やめた。
どう説明する。
汚れているなら、
まだ伝えられるかもしれない。
でも、
目の前の水はきれいだ。
底まで見える。
その中に、
目では見えないものがいるかもしれない。
それが身体に入る。
病気になる。
だから、
熱を加える。
俺はそのことを知っている。
けれど、
伝える方法を知らなかった。
子どもが、
また俺の真似をした。
腹を押さえ、
変な顔をする。
女が笑った。
若い男の口元も、
ほんの少し動いた。
「……だから違うって」
今度は、
俺も少し笑った。
*
女が子どもに何か言った。
子どもは器を下ろした。
飲まなかった。
伝わったのか。
たまたまなのか。
分からない。
女は水を汲み終えると、
来た道とは少し違う方向へ歩き出した。
俺もついていく。
しばらくして、
子どもが急に川のほうへ下りた。
「おい」
さっきとは違う場所だった。
少し上流。
石の多いところだ。
子どもはしゃがむ。
器で水をすくった。
そして、
飲んだ。
「待っ――」
一歩出たところで、
腕に何かが触れた。
女だった。
強く止めたわけではない。
ただ、
俺の腕に手を置いている。
女は子どもを見る。
何も言わない。
子どもはもう一口飲んだ。
俺は、
最初の場所を見る。
今いる場所を見る。
同じ川だ。
少なくとも、
俺にはそう見える。
*
水辺まで下りた。
しゃがむ。
流れを見る。
手を入れる。
冷たい。
子どもが俺の袖を引いた。
「何?」
少し下流を指す。
さっきの場所。
何か言う。
次に、
今いる場所を指した。
別の音。
俺は二つの場所を見比べる。
「違うのか?」
子どもは、
また俺の袖を引いた。
少し上へ行く。
石の多いところで止まる。
地面を指した。
俺も見る。
石の間が濡れている。
細い水が、
そこから川へ流れ込んでいた。
俺はしゃがんだ。
「ここから出てるのか……」
子どもが何か言った。
分からない。
石の間の水を指す。
次に、
自分がさっき水を飲んだところを指す。
俺は、
二つを目で追った。
ここから流れて、
あそこへ行く。
それは分かった。
だから安全なのか。
そこまでは、
俺には分からない。
湧いているように見える水でも、
絶対に安全とは限らない。
ただ、
一つだけ分かった。
この子は、
どこでも同じように水を飲んでいるわけではない。
*
帰り道、
俺は二人の後ろを歩いた。
女は迷わない。
子どもは、
途中で何度も立ち止まる。
木を見る。
地面を見る。
何かを拾う。
また走る。
俺も同じものを見る。
でも、
何を見ているのか分からない。
木。
草。
石。
水。
俺の目には、
それくらいにしか見えなかった。
集落へ戻る。
女は汲んできた水を運んでいった。
一部は、
火の近くへ置かれた。
俺は足を止めた。
水。
火。
朝から、
俺が必死に伝えようとしていた二つだった。
女が器を扱っている。
しばらくすると、
湯気が上がった。
「……」
俺は近づきかけて、
やめた。
何のために熱しているのか、
俺には分からない。
飲むためかもしれない。
食べ物に使うのかもしれない。
何かを洗うのかもしれない。
俺が考えていたことと、
同じ理由だとは限らない。
女は俺を見る。
何か言った。
俺は首を振った。
「分からない」
女も、
俺が分からないことだけは分かったらしい。
それ以上は何も言わなかった。
*
午後。
「サエキ」
呼ばれた。
振り返る。
あの子どもだ。
もう、
この声には身体が先に反応する。
子どもは俺のところまで来ると、
水を飲む仕草をした。
次に、
両手をひらひらさせる。
火。
朝の俺だ。
「まだやるのか」
子どもが笑う。
俺も笑った。
子どもは俺の手を引いた。
「今度は何だよ」
答えはない。
そのまま、
どこかへ連れていかれる。
俺はついていった。
*
日が傾いたころ、
俺はもう一度、
川へ行った。
今度は一人だった。
朝、
女が水を汲んだ場所。
子どもが飲んだ場所。
石の間から、
水が流れ出していた場所。
ほんの少し離れているだけだった。
俺には最初、
全部同じに見えた。
しゃがむ。
流れを見る。
水について、
俺が知っていることはある。
目に見えなくても、
危険なものが混じることがある。
熱を加えることで、
その危険を減らせることもある。
その知識が、
なくなったわけじゃない。
でも、
この川については何も知らない。
雨が降ったあと、
どこが変わるのか。
どこから水が来るのか。
この人たちが、
どこを避けるのか。
なぜ、
あの場所を選ぶのか。
水面を見ていると、
後ろで音がした。
振り返る。
子どもだった。
俺を見つけると、
何か言った。
そして、
少し上流を指す。
歩き出す。
数歩行ってから、
振り返った。
「サエキ」
俺は立ち上がった。
子どものあとを追う。
少し先で、
子どもが地面を指した。
俺も、
同じところを見る。
今度は、
すぐに歩き出さなかった。
しゃがんで、
子どもが見ているものを見た。
お読みいただき、ありがとうございます。




