第6話 名前を、覚える
朝に覚えた音を、
俺は何度も頭の中で繰り返していた。
枝を指すと、
あの子どもは同じ音を言う。
俺が真似する。
今度は、
首を振らなかった。
だからたぶん、
完全には間違っていない。
ただ、
それが「枝」という意味なのかは分からない。
木かもしれない。
薪かもしれない。
持て、かもしれない。
考え始めると、
何も分からなくなる。
「……難しいな」
子どもが振り返った。
俺を見る。
手に持っていた枝を上げる。
また、
あの音。
俺も言ってみる。
子どもは、
今度も首を振らなかった。
それだけで、
少しうれしかった。
*
昼が近づくころ、
別のことに気づいた。
ここにいる人たちは、
よく互いを呼んでいる。
女が声を上げる。
離れたところにいた男が振り向く。
誰かが短い音を叫ぶ。
子どもが走っていく。
昨日まで、
全部同じに聞こえていた。
意味のない音のかたまり。
けれど、
聞こうとしてみると、
同じ音が何度も出てくる。
そのうちの一つが聞こえた。
短い音だった。
あの子どもが振り向く。
しばらくして、
また同じ音。
今度も、
子どもが反応した。
俺は子どもを見る。
「……お前?」
子どもも俺を見る。
名前。
もしかして。
*
確かめようにも、
「名前は何だ」と聞けない。
少し考えて、
自分の胸を指した。
「佐伯」
子どもが俺を見る。
もう一度、
胸を指す。
「佐伯」
子どもの目が、
少し変わった。
俺を指す。
何か言った。
全然違う。
「サ・エ・キ」
ゆっくり言ってみる。
子どもも真似した。
惜しい。
「佐伯」
もう一度。
子どもも、
もう一度。
さっきより近い。
「そう。佐伯」
俺は自分を指した。
子どもも俺を指す。
「サエキ」
「そう」
通じた。
たぶん。
今度は子どもが、
自分の胸に手を当てた。
短い音を言う。
さっき、
何度も聞いた音だった。
俺は子どもを指した。
同じ音を真似する。
首を振られた。
「違う?」
もう一度、
子どもが言う。
俺は口元を見る。
真似する。
また首を振る。
三度目。
子どもが笑った。
今度は、
首を振らなかった。
俺はその音を、
頭の中でもう一度繰り返した。
*
一つ分かると、
人の声が少し違って聞こえ始めた。
誰かがその音を言う。
子どもが振り向く。
別の場所から聞こえる。
子どもが走っていく。
やっぱり、
名前なのかもしれない。
昨日、水をくれた女が来た。
子どもに何か言う。
子どもが答える。
女が俺を見る。
俺も女を見る。
昨日から、
俺の中ではずっと、
「水をくれた女」だった。
あの若い男は、
「槍を持った男」。
火のそばにいた老人は、
「老人」。
でも、
この人たちは互いをそう呼んでいるわけじゃない。
俺が知らないだけだ。
女が歩き出す。
子どももついていく。
俺は試しに、
さっき覚えた音を口にした。
子どもが止まった。
振り返る。
俺まで少し驚いた。
「……合ってる?」
子どもが笑った。
そして、
俺を指した。
「サエキ」
今度は、
かなり近かった。
俺は自分を指す。
「佐伯」
子どもも俺を指す。
「サエキ」
俺は子どもを指す。
覚えた音を言う。
子どもが笑った。
隣にいた女も、
少し笑った。
*
それから、
俺は人の声を聞くようになった。
意味は分からない。
それでも、
同じ音が何度も出てくることには気づく。
誰かが呼ばれる。
振り向く。
別の誰かが呼ばれる。
返事をする。
音と顔を、
頭の中でつなげていく。
もちろん、
何度も間違えた。
若い男のものだと思った音に、
別の男が振り向いた。
女の名前だと思ったものを口にしたら、
誰も振り向かなかった。
分からない。
覚えたと思ったものまで、
怪しくなる。
それでも、
あの子どもの音だけは、
呼ぶたびに振り向いた。
*
日が傾き始めたころ、
俺は火の近くに座っていた。
向こうから、
子どもが走ってくる。
俺の前で止まった。
何か言う。
「……分からない」
首を振る。
子どもは少し考えた。
俺を指す。
「サエキ」
「ああ」
頷く。
今度は、
自分を指した。
あの音。
俺も同じ音を返す。
子どもが頷いた。
それから、
少し離れたところにいる女を指した。
別の音を言う。
俺は女を見る。
子どもを見る。
もう一度、
女を指す。
また同じ音。
「……あの人?」
俺が真似する。
子どもが首を振った。
もう一度。
まだ違う。
三度目。
今度は頷いた。
「難しいな」
子どもはもう、
別の人を指していた。
火のそばにいる老人。
また違う音。
「待て待て」
待ってくれない。
次は、
少し離れたところにいる若い男。
俺はそちらを見る。
若い男も、
こちらを見ていた。
子どもが短い音を言う。
俺は若い男を指した。
「これが、あいつ?」
若い男の眉が動いた。
まずかったらしい。
俺はすぐに手を下ろした。
子どもが笑った。
若い男は何か言った。
子どもがさらに笑う。
俺には、
どちらの意味も分からない。
それでも、
あの男にも名前があるらしい。
当たり前のことなのに、
少しだけ妙な感じがした。
*
夜。
火のそばには、
いくつもの声があった。
昨日と同じ。
知らない言葉ばかりだ。
でも、
昨日とは違う。
声がする。
一人の顔が浮かぶ。
また声がする。
別の誰かが振り向く。
俺は火の向こうに、
あの子どもを見つけた。
覚えた音を、
呼んでみる。
子どもが振り返った。
すぐに、
俺を見つける。
そして、
俺を指した。
「サエキ」
「うん」
返事をした。
たぶん、
「うん」の意味は分かっていない。
それでも、
子どもは笑った。
俺も笑った。
火が、
二人の間で揺れていた。
昨日まで、
ここにいるのは、
知らない人たちだった。
今夜は、
その中の一人が、
俺の名前を知っている。
お読みいただき、ありがとうございます。




