第69話 先に置くもの
水の器を抱えて戻ると、槍の男が立っていた。
森を見ている。
木々の間から、一人の男が出てきた。
少し遅れて、もう一人。
二人とも槍を持っていた。
俺は足を止めた。
器の水が揺れる。
今、こぼすな。
そう思った途端、縁から少しこぼれた。
槍の男が片手を後ろへ出す。
俺は止まった。
森から来た男が声を上げた。
小屋の中で、若い男が顔を上げる。
返事をしかけて、口を閉じた。
向こうの男は小屋を指した。
次に、川の向こう。
手を大きく引く。
呼び戻そうとしている。
*
トワが小屋から出てきた。
見張りの男の横へ立つ。
集落からウネも来た。
後ろに男が二人。
向こうの男は人数を見て、足を止めた。
槍の先は下を向いている。
だが、声は低くなかった。
若い男が入口へ出た。
相手を見る。
子どもが、その袖をつかんだ。
向こうの男が短く呼ぶ。
若い男の名らしい。
続けて、もう一つ。
子どもも顔を上げた。
二人とも知っている相手だった。
トワが俺を見た。
器。
小屋。
俺は男たちの後ろを通った。
向こうの男の目が俺の服へ向く。
今日は、そちらは後回しにしてほしかった。
*
ミナが水を受け取った。
子どもの木の椀へ移す。
若い男は葉の包みを膝へ載せていた。
紐を締める。
外の声を聞きながら、子どもの背中へ腕を回した。
ナギが呼びかける。
男は答えず、片足を床へつけた。
立とうとする。
膝が曲がった。
年老いた女が肩を押さえる。
子どもが袖を強く引いた。
若い男は座り直した。
俺は入口へ寄った。
ウネが小屋を指している。
向こうの男は首を振り、川のほうを示した。
その声の中に、ナギの名があった。
ナギが身体を起こす。
短く答える。
若い男も続いた。
向こうの男の指が、若い男から子どもへ移る。
次に、葉の包み。
掌を上へ向けた。
返せ。
そう見えた。
*
トワが若い男の前へしゃがんだ。
包みを指す。
若い男は紐を解いた。
石刃。
骨の道具。
短い縄。
乾いた木の実。
トワが縄を持ち上げる。
若い男が頷いた。
骨の道具には首を振る。
胸へ手を当てた。
石刃も包みに残った。
トワは縄だけを持って外へ出た。
ウネが二人の間に獣皮を敷かせる。
その上へ縄が置かれた。
向こうの男は後ろの相手へ槍を渡した。
近づき、しゃがむ。
縄を取った。
途中の継ぎ目を指で擦る。
若い男へ見せた。
男は頷き、何か答えた。
向こうの男は縄を腰へ下げた。
取り返したかった物なのだろう。
だが、それだけでは終わらなかった。
また小屋を指す。
若い男。
子ども。
川の向こう。
ウネが答える前に、若い男が声を出した。
子どもの脚を示す。
自分の足も。
向こうの男は入口を見た。
そこには、立てかけた担架があった。
寝床の下半分を隠していた。
俺は担架へ手を伸ばした。
横へ動かす。
傷に触れて掌が痛んだが、今は止めなかった。
入口が空く。
向こうの男の目が、子どもの脚へ落ちた。
年老いた女が俺を見た。
それから獣皮を少しめくった。
巻かれた脚。
腫れた足。
子どもが身を縮めたので、すぐにかけ直す。
女は次に、若い男の足を示した。
俺は担架を地面へ置いた。
樹皮には、運んできたときの泥が残っている。
トワがそれを指した。
森を指す。
子どもを指す。
向こうの男が尋ねる。
トワは頷いた。
*
若い男が両腕を後ろへ回した。
背負う仕草。
そのまま立とうとする。
俺は肩へ手を添えた。
男の身体が傾く。
ミナが反対側を支えた。
足へ重さをかける前に、寝床へ戻す。
子どもが声を上げた。
若い男は顔を伏せた。
外が静かになった。
後ろで槍を預かっていた男が口を開いた。
肩には籠をかけている。
先の男が振り返る。
籠の男は子どもを指した。
若い男の足。
こちらの寝床。
先の男が首を振る。
籠の男はもう一度言った。
今度は、少し強かった。
二人のあいだにも、意見の違いがあった。
俺は子どものそばへ戻った。
椀の水が減っている。
ミナから器を受け取り、少し足した。
子どもは椀ではなく、入口を見ていた。
*
ウネが若い男を呼んだ。
男が顔を上げる。
ウネは向こうの二人を示し、胸の前で手を重ねた。
若い男は頷いた。
川の向こうを指す。
次に、自分と子ども。
小さな丸を地面へ描いた。
その丸の中を指し、向こうの二人を見た。
同じ場所で暮らしていた。
少なくとも、そこまでは分かった。
男は丸の外へ指を出した。
自分の足。
子どもの脚。
ナギが続けて話す。
トワも加わった。
俺は昨日の図を思い出した。
ナギが道を教えた相手。
隠れていた子ども。
帰ってこいと呼ぶ男たち。
同じ場所から来たからといって、同じ考えで動いているわけではない。
若い男は、子どもを連れてここへ来ようとした。
向こうの男は、連れ戻そうとしている。
その違いは、言葉が足りなくても見えた。
*
籠の男が槍を地面へ立てかけた。
籠を下ろす。
葉の包みを取り出し、獣皮の上へ置いた。
乾いた魚だった。
先の男が声を強める。
籠の男は包みから手を離した。
子どもを指す。
返事を待った。
ウネが二人のあいだへ言葉を入れた。
若い男と子どもを指す。
小屋の地面。
ここ。
次に、子どもの脚を示した。
立っているトワの足を指す。
トワが数歩、歩いた。
ウネは川の向こうを示す。
俺は三人の手を追った。
今は、ここ。
歩けるようになったら、その先の話。
そんな順番に見えた。
向こうの男が長く答えた。
ウネが頷きかける。
トワが口を挟んだ。
若い男も顔を上げて話した。
ウネは聞き直し、向こうへ答えた。
簡単な約束ではないらしい。
それでも、若い男はもう子どもを抱き上げようとしていなかった。
最後に、向こうの男が若い男を呼んだ。
男は目を合わせた。
話を聞く。
ゆっくり頷いた。
向こうの男は縄を持ち上げ、小屋をもう一度見た。
それから槍を受け取った。
籠の男が包みを指した。
ウネが頷く。
二人は森へ向き直った。
*
姿が木々に隠れても、見張りの男は動かなかった。
別の男が、その横へ来る。
短く話したあと、一人が森を見渡せる場所へ移った。
若い男は包みを膝へ載せたままだった。
ウネが寝床の端を指す。
男がそこへ置く。
子どもの袖をつかんでいた手が、少し緩んだ。
ナギも横になった。
俺は入口に座った。
背中へ柱が当たる。
ようやく、肩の力が抜けた。
トワが隣へ来た。
俺の掌を見る。
担架を見る。
「動かしただけだ」
トワは黙っていた。
俺は手を膝へ戻した。
言い訳を重ねるほど、こちらの負けになる気がした。
*
魚は年老いた女が割った。
子どもには、小さな欠片。
ナギにも少し。
若い男は受け取ってから、外へ目を向けた。
魚を置いた男がいた場所だった。
しばらくして、口へ入れる。
俺の前にも一つ置かれた。
「俺も?」
頷かれる。
指でつまんだ。
掌が痛み、持ち直す。
魚が折れた。
小さいほうが膝へ落ちる。
子どもが見ていた。
俺は拾った。
「分けたんだ」
子どもの口元が動く。
信用されていない。
魚を噛む。
硬い。
なかなか切れない。
子どもはまだ見ている。
俺は少し横を向いた。
すると、トワまで見ていた。
今日は食べるだけでも忙しかった。
*
若い男が俺を呼んだ。
「サエ」
顔を上げる。
男は胸へ手を当てた。
「ハル」
もう一度。
「ハル」
俺が真似すると、頷いた。
次に子どもを指す。
「ユイ」
外の男が呼んでいた音だった。
俺は子どもを見る。
「ユイ」
目が合う。
小さな指が、俺へ向いた。
「サエ」
「そう」
頷く。
ハルが少し笑った。
俺は二人の名を、頭の中で繰り返した。
ハル。
ユイ。
もう、呼ばれたら誰のことか分かる。
外でウネが声を上げた。
「セト」
見張りの男が振り返った。
返事をする。
俺はその横顔を見た。
いつも槍を持っていた男。
森を指した男。
子どもを運んだ男。
セト。
俺が小さく真似すると、本人がこちらを見た。
自分を指す。
「セト」
俺は頷いた。
「サエ」
胸へ手を当てる。
セトは俺の手を一度見て、外の担架を指した。
話は終わりらしかった。
*
日が傾いていた。
風よけの獣皮が膨らむ。
小屋の屋根の隙間から、細い光が寝床へ落ちていた。
ウネが中を覗く。
二つの寝床。
その間の細い通り道。
入口には水の器。
ミナが入るたび、身体を横にする。
ウネは集落の端にある家を指した。
そこで女が籠を運び出していた。
別の者が古い草を外へ引きずる。
トワが入口へしゃがみ、中を確かめた。
ウネへ声を返す。
寝る場所を、そちらへ移す。
俺にも分かった。
森を見る見張りから近く、中央の火までは少し距離がある家だった。
セトが担架を出した。
ナギを指す。
ユイを指す。
長い枝を二本、地面へ並べた。
俺はしゃがんだ。
縄を取る。
セトが俺の掌を見た。
隣にいた男を呼び、枝を押さえさせる。
縄を強く引くのも、その男だった。
俺は巻き方と結び目を確かめる。
これならできる。
最初の横木が留まった。
セトが枠を持ち上げ、ねじる。
動かなかった。
次の一本が、俺の前へ置かれた。
小屋からユイの声がする。
ハルが答えた。
トワは移す先の家から戻ってきた。
新しい草を抱えている。
俺は次の縄を巻いた。
日が落ちる前に、二人を屋根の下へ運ぶ。
今度は、そのために手を動かした。




