第68話 教えた道
槍の男が、川の向こうを指した。
若い男は答えなかった。
子どもの肩に置いた手だけが動く。
獣皮を引き上げ、胸元までかけ直した。
男がもう一度尋ねる。
短い声だった。
若い男はナギを見た。
ナギも、すぐには口を開かなかった。
入口にはトワが立っている。
その後ろからミナが水を運んできた。
俺は身体をずらした。
ミナが入ろうとする。
担架の持ち手に足が当たった。
器の水が揺れる。
俺は慌てて担架を引いた。
今度は、自分の足に引っかかった。
「……まず、これだな」
話が分からなくても、邪魔になっている物は分かった。
空の担架を外へ出した。
持ち手の向きを変え、小屋の壁沿いに置く。
戻ると、ミナは子どものそばへ座っていた。
小さな手が器へ伸びる。
若い男が背中を支えた。
子どもが水を飲むあいだ、槍の男は待った。
*
ウネが来た。
地面の線を見て、男たちの顔を見る。
トワが短く話した。
ナギの名。
森のほうを指す手。
それから、担架を運んできた道。
ウネは入口の脇へ腰を下ろした。
若い男へ何か尋ねる。
今度は、返事があった。
男は木の椀を地面に置いた。
その横に小石を二つ。
少し離れたところに、もう一つ。
三つ目の石を指して、ナギを見る。
ナギが頷いた。
男は二つの石のうち、小さいほうをつまんだ。
脚を指す。
持ち上げようとして、手を止める。
次に、自分の足へ触れた。
草と紐で巻かれた足だった。
俺は昨日、火のそばで男が立とうとした姿を思い出した。
子どもを背負ったまま、歩けなくなったのか。
ナギが枝を取った。
地面へ線を引く。
川のそばから始まり、途中で曲がり、集落の手前へ伸びてくる。
槍の男がその枝を押さえた。
ナギを見る。
ナギは手を離さなかった。
何か言った。
若い男も続けた。
子どもが二人を見ている。
ナギはその子を指し、集落の火を指した。
それから、地面の道をもう一度なぞった。
俺はトワを見た。
トワは俺の前へ石を二つ置いた。
若い男。
子ども。
ナギを指す。
道を指す。
最後に、子どもの脚。
俺はゆっくり頷いた。
ナギが教えた道。
そこを通った二人。
歩けなかった子ども。
細かい順番までは分からない。
けれど、ナギはこの二人を、ただ森へ逃がしたかったわけではないらしい。
火のあるほうへ行かせようとした。
助けてもらえる場所へ。
*
槍の男の声が強くなった。
ナギが顔を上げる。
男は小屋の外を指した。
集落の中央。
そこでは、子どもたちが木の実を運んでいた。
こちらを見ている子もいる。
槍の男は地面の道へ戻った。
枝の先で、途中の一か所を押さえる。
若い男へ尋ねた。
男は首を振る。
すぐに、何か言い直した。
槍の男の手が止まった。
トワもしゃがんだ。
若い男は枝を受け取り、道の途中に短い線を足した。
二つに分かれるところ。
その横へ石を置く。
自分の胸を指す。
子どもを指す。
石の向こうを指して、顔をそちらへ向けた。
誰かに見られた。
そういうことだろうか。
槍の男が石を一つ取った。
集落へ向かう線の上へ動かす。
若い男を見る。
男は答えかけた。
口を閉じる。
やがて首を振ったが、その後で両手を開いた。
知らない。
それだけは、俺にも分かった。
誰がいたのか。
どこまで来たのか。
その答えは、若い男も持っていない。
槍の男が立ち上がった。
外にいた見回りの男を呼ぶ。
二人で地面を見た。
若い男が描いた分かれ道を、見回りの男も指した。
知っている場所らしい。
ウネが何か言った。
二人が返す。
トワも加わる。
声は低かった。
怒鳴り合いにはならない。
だが、誰も笑わなかった。
俺は子どものそばへ座った。
さっきから、若い男の手が肩から離れない。
子どもも、その腕を握っていた。
*
話が止まると、若い男が葉の包みへ手を伸ばした。
紐を確かめる。
石刃と骨の道具が、中で小さく触れ合った。
男は木の椀を重ね、包みを自分の膝へ引き寄せた。
それから子どもへ腕を回す。
「待って」
俺は手を出しかけた。
何をするつもりなのか、まだ分からない。
ただ、出ていく準備に見えた。
ナギが身体を起こす。
足が動き、息を詰めた。
年老いた女が肩を押さえた。
槍の男が若い男の前へ来た。
包みを見る。
子どもを見る。
男が立とうとした。
槍の男の手が、その肩へ置かれた。
強く押したわけではない。
それでも、若い男は座り直した。
槍の男は膝の包みを取った。
俺の身体が固くなる。
男はそれを、子どもの寝床の端へ戻した。
木の椀も、その横へ置く。
次に若い男を指した。
子どもの隣を指す。
地面へ掌を向けた。
ここにいろ。
昨日、ウネが俺たちへ示したのと似た仕草だった。
若い男は動かなかった。
槍の男がもう一度、寝床を指す。
そこでようやく、男の肩が下がった。
子どもを抱こうとしていた腕が、ゆっくりほどける。
ナギも、年老いた女の手に従って横になった。
俺は息を吐いた。
槍の男は外へ出た。
見回りの男が続く。
二人は小屋の前で別れた。
一人は森の見える場所へ。
もう一人は、集落の中央へ向かう。
追い出すために立ったのではなかった。
*
人が減ってから、小屋の中を片づけた。
寝床が二つになると、思ったより狭い。
水の器。
木の椀。
葉の包み。
ナギの足を支える木。
その間を、人が通らなければならない。
俺は入口近くの器を動かした。
ミナがすぐに止める。
違う場所を指された。
「ああ、そっちか」
置き直す。
今度は、年老いた女が手を伸ばした。
俺の置いた器を、さらに少し寄せる。
ナギの足に当たらない位置だった。
俺は頷いた。
ここでも、置けばいいというものではない。
寝床の間へ草を敷こうとすると、ミナが首を振った。
通る場所。
そこは空ける。
ようやく分かった。
俺は余った草を壁際へ寄せた。
入口から二人の顔が見える。
器にも手が届く。
これなら、誰かが寝床をまたがなくていい。
若い男が俺を見ていた。
足元の籠を引き寄せる。
自分の横へ置いた。
通り道が、もう少し広くなった。
俺は軽く頷いた。
男も頷いた。
*
ナギが俺の袖を引いた。
掌を見せる。
いや、自分の掌ではない。
俺の手を見たいらしい。
差し出すと、ナギは擦れたところへ目を落とした。
それから、外の担架を見る。
何か言った。
声は小さかった。
俺は首を振った。
「俺は、今日は持ってない」
外を指す。
槍の男が立っていた場所。
担架。
もう一人の男。
ナギはしばらく俺を見ていた。
それから、入口へ顔を向けた。
槍の男が戻ってきた。
短い薪を脇に抱えている。
ナギが呼びかけた。
男は足を止めた。
ナギは地面の図を指す。
まだ消えていない道。
分かれ目。
そこから、小屋へ向かう線。
今度は、自分の胸へ手を当てた。
槍の男は黙って聞いた。
ナギが枝を求める。
俺は近くに落ちていたものを渡した。
ナギは横になったまま、腕を伸ばした。
道の途中へ、もう一本の線を足す。
トワがその手元を見る。
何か尋ねる。
ナギが答えた。
トワは外へ声をかけた。
見回りの男が戻ってくる。
ナギの描いたところを見て、短く頷いた。
俺は図を見た。
ナギは、教えたことを取り消せない。
だから今、知っている場所を全部伝えようとしている。
槍の男は枝を取り上げなかった。
ナギが描き終わるまで待った。
それから、薪を俺の横へ置いた。
*
夕方になる前に、小屋の前へ低い風よけが立った。
集落の男たちが枝を運び、獣皮を張る。
入口から森を見る場所は、塞がなかった。
火はその横。
煙が小屋へ入りにくいところへ移された。
俺も薪を運んだ。
二本ずつ。
抱える量を減らすと、掌を強く握らずに済んだ。
あの子どもが途中まで来た。
俺の腕を見る。
薪を見る。
一本取ろうとした。
「これは持てる」
子どもは俺の顔を見た。
一本を持って、先に歩く。
返してくれるつもりはなさそうだった。
俺は残った一本を運んだ。
火のそばへ置く。
子どもはもう次へ戻っている。
働き方まで教えられている気がした。
小屋の中から、声がした。
拾ってきた子どもが目を覚ましていた。
若い男が木の椀を持ち上げる。
中を見る。
空だった。
槍の男が入口へ来た。
俺は少し横へ寄った。
男は小屋の中を見て、ナギの足、子どもの顔、空の椀へ順に目を向けた。
それから、俺を呼んだ。
「サエ」
顔を上げる。
男は水を入れる器を差し出した。
集落のほうを指す。
次に、小屋。
俺は受け取った。
両手で抱えれば、掌の傷に当たらない。
「分かった」
歩き出しかけて、振り返る。
槍の男は、入口の脇へ腰を下ろしていた。
槍を膝へ置く。
顔は森へ向いている。
その背後で、若い男が子どもの獣皮を直した。
俺は器を抱え直し、水のあるほうへ歩いた。
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